『聖夜』(1)



 イルミネーションで街が輝く十二月。

 二十五日のクリスマスを迎えた今日。
 
 現在の時刻は夜九時。


 今頃恋人達は、お洒落なお店でディナーを食べて甘いひと時を楽しんでいることだろう。


 なのに……


「なのに何故私は聖なる夜に残業なんかしてんの!?」


 私、如月凌(きさらぎ しのぐ)は勤務先の会社の秘書室に勤めて三年目。
 現在二十五歳。まだ独身だけど、付き合い始めて一年の彼氏が居る。


(あ〜もうっ! 恋人達のクリスマスに何で残業だなんて〜!)


 凌は苛立ちをぶつけるように、パソコンのキーボードを叩き作業を再開した。
 七時までちらほらと残業していた他の秘書達の姿も既に無く、秘書室は閑散としている。


(クリスマスだもん。早く帰るよね。私だって今頃、彼氏である珪(けい)君と楽しく過ごしてる筈だったのに……)


 今日は恋人の部屋でクリスマスを祝う予定だった。
 恋人がチキンで有名なファーストフード店でクリスマスチキンを予約してくれていたと言うのに。


「そうよ。折角のデートだったのに……って、あぁっ! 大変! 電話してない!」


 残業に必死で連絡を入れることをすっかり忘れていた。
 約束の時間になっても部屋へやって来ない凌の事を、恋人も心配しているに違いない。


(きっと珪君心配してるわ……)


 キーを打つ手を止め、パソコンの傍らに置いていたピンク色の携帯電話に手を伸ばす。
 普段なら屋上や非常階段で電話を使うのだが、今は誰も居ないので此処で使ってしまう。


 無機質な機械音が暫く流れ、数コール目で目的の相手が出る。


『……はい』


 少し掠れた、恋人の声。


「あ、珪君? 私、凌。ごめんなさい。今日のデートなんだけど、残業で無理そうなの。でね、二十七日が締日だから、年末は二人で過ごせそうなんだけど……」


 「だから一緒に大晦日を過ごさない?」と続けようとした凌の耳に、恋人から信じられない言葉が届いた。


『……から、もういい……』

「え……?」


(不機嫌そうな声……)


『だから、もう別れるって言ってんの。だいたいさ、デートの度に仕事仕事っていう女っってウゼェし。第一、本当かすら分からないしな』


(仕事仕事っていう女ってウザイ? 本当かすら分からない? それって……、私が浮気してるってこと?)


「待って、だって本当に仕事なの。今日だってちゃんとプレゼントも用意して……」


 嘘じゃない。そう信じてもらいたくて、凌は言葉を重ねた。


 しかし―――


『ねぇ、珪〜? いつまで電話してんの〜? 一緒にお風呂入ろうよ。珪がいっぱい出した精液で身体中ベタベタしてるんだから。やっぱピル飲んでてもナカ出しは後が面倒だよね〜』


 受話器の向こうから、微かに聞こえてくる女性の声。


「……私の他に彼女居たんだ?」


(駄目……、声が震えちゃう)


『違う。お前が他の彼女。ヤらせてくれない女を本気で相手するわけないだろ。じゃぁな――プツッ』


「―――っ!?」


 切れた携帯電話を耳にあてたまま、凌は今の言葉を反芻した。

 他に彼女が居たのではなく


「私が……、他の彼女?」


 つまり、浮気相手―――


(一体いつから……? 私が仕事仕事って言ったから? 身体の関係を拒んだから? 或いは最初から?)


 仕事で都合がつけられない時、彼はいつも仕方がないなと理解を示してくれていた。
 そう言う空気になった時、身体の関係は結婚後にすると決めていると告げれば、その日を楽しみにしていると言ってくれていたのに。
 あれは全て嘘だったのだろうか。
 それとも、彼の言葉に甘えすぎていたのだろうか。

 考えが纏まらず、ぐるぐると憶測が頭の中渦巻く。


 でも、一つだけ確かなことがある。


 私、如月凌は十二月二十五日の聖夜に、一年間付き合った彼氏に振られたのだ―――


 二十五年生きてきて、初めて迎える最低なクリスマス。


「ふぅっ……、うぅ……っ」


 悔しくて、情けなくて涙が溢れて止まらない。
 
 誰も居ない秘書室に凌の鳴咽だけが響く。


「まだ誰か残っているんですか?」

「―――っ!?」


 突然聞こえた声に、ビクリと身体が震える。


(この低く響く声……)


 聞き慣れた声に、慌ててハンカチで涙を拭い、恐る恐る秘書室の入口に視線を向けた。


「室長……」


 スラリとした身体にダークグレーのスーツを身に纏い、腕には黒のロングコートをかけ、手には珈琲ショップのロゴの入った紙袋とビジネスバッグを持っている。
 クォーターである彼の名は葉月・レイヴン。
 秘書室の室長を務める、凌の上司だ。

 レイヴンは自分のデスクに荷物を置き、ビジネスバッグの中からノートパソコンを取り出し、電源を入れた。


「室長、ご帰宅なされた筈では?」


 凌の記憶が正しければ、レイヴンは定時に退社した筈だ。
 彼のいつになく早い退社に、他の秘書達が「室長、もしかしてデートですかね?」と話題にしていた。


「クリスマスで定時にあがられた社長をご自宅までお送りしていたんですよ。私もディナーをご馳走になったので、この時間です」

「―――えぇ!? あの社長が定時に退社ですか!?」


 社長である倉橋珀明(くらはし はくめい)は、旧華族である倉橋一族の現当主。
 
 二十九歳という若さで多くの事業を展開している青年実業家だ。
 整った顔をしているが、その眼光は鋭く、冷酷な仕事ぶりから一部の社員や他企業の社員達から“死神”と恐れられている。


(仕事人間の社長が、クリスマスに定時退社……。驚かないなんて無理よ)


 凌の驚きように、レイヴンは苦笑した。


「ふふ。気持ちは分かりますけど、そんなに驚かなくても良いじゃないですか。社長も人間だったってことですよ。あの人でも家族が出来れば多少は丸くなるってことです」


(多少は、ですか……)


 社長は去年の夏に結婚した。
 相手は十歳近くも年下の分家の娘で、政略結婚だと言う専らの噂だ。


(それにしても、社長も人間だったとか、仮にも雇用主に凄い言い草ですね……)


「そういうものなんですかね……」


(あの社長にそこまで大切にされる奥様って、一体どんな方なのかしら……)


 レイヴンの話に相槌を打ちながら、凌はそんなことを考えていた。


「ま、分かりませんけどね。はい、どうぞ」


 レイヴンは紙袋を開け、中から二つの珈琲とサンドイッチを取り出した。
 そして、珈琲を一つ凌に差し出した。


「えっ……、良いんですか?」


 他の誰かの為に買ってきたのではないのかと、受け取るのを躊躇う凌にレイヴンは安心させるように微笑んだ。


「良いんですよ。キャラメルマキアート、お好きですよね? サンドイッチはベーコンレタスサンドを買ってきたんです。宜しければどうぞ。まだ夕食も召し上がっていないのでしょう?」


(どうしてまだ夕食を食べていないことが見抜かれているのかしら……)


 沈んだ気分のまま夕食を買いに行くつもりはなかった為、レイヴンの差し入れは正直有難い。
 凌は言葉に甘え、サンドイッチを受け取った。


「有難うございます」


 キャラメルマキアートの甘い香りに誘われ、一口飲む。
 冷たいキャラメル味のクリームと温かい珈琲が合わさり、口の中に甘い味が広がる。
 その優しい味は沈んだ凌の気分を少しだけ浮上させてくれる。

 会社の前にあるカフェのベーコンレタスサンドは、柔らかなクルミパンに特製ケチャップとマヨネーズがかけられたレタスとベーコンが挟まれている。
 キャラメルマキアートとベーコンレタスサンドは、凌が昼食に好んでよく食べる組み合わせだ。
 
 次にベーコンレタスサンドを一口齧る。
 クルミの香りと塩気を含んだベーコンの味が食欲を誘い、自分の体が空腹だったことに気付かされる。
 いつもは太らない様にゆっくりと食すのだが、空腹の為食べるスピードはやや速めだ。

 その間、レイヴンはまるで面白いものを見るかのように、凌の様子をブラック珈琲を飲みながら眺めていた。


「ご馳走様でした」


 凌がキャラメルマキアートを飲み干すと、待っていたようにレイヴンが口を開いた。


「如月さん、さっき泣いてたみたいですけど、大丈夫ですか?」

「え……?」


 やはり聞こえていたか、と思う。
 しかし、誰も居ないと思っていたからこそ、あれだけ盛大に泣いていたのだから、聞かれていて当たり前だとも思う。


「大丈夫です。すみません。うるさかったですよね」

「いいえ。そうは思いませんでしたが、そうですね……。ただ溜め込むだけではなく、話せることなら吐き出してしまった方が少しは楽になるのでは…、とは思いますが」

「―――っ!?」


 その言葉に、凌はレイヴンの顔を見上げた。
 レイヴンの眼差しはいつになく真剣で、凌の弱った心を揺さ振る。

 レイヴンならきっと、凌をからかうことも馬鹿にすることもないだろう。

 膝に手を置き、気がつけば口を開いていた。

 彼に騙されていたことを除いて、電話でのやり取りをレイヴンに話していく。
 話している途中に悔しさから鳴咽がまじっても、レイヴンは「ゆっくでいいから」と優しい言葉をかけてくれた。



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