『幸せの種』(3)
「うん。有難う。ごめんね、途中で……」
「大丈夫。凌の分は私がちゃんと呑んどいてあげるから……っと、来たみたいよ」
スーパーの駐車場に一台の車が停車した。
梅雨が近くなり、夜が深くなるにつれ蒸し暑くなるにも関わらず、BMWのドアを開けて降りて来たレイヴンは暑さとは無縁のように涼しげに見える。
スーツのジャケットを脱いでネクタイを外し、シャツの袖を肘近くまで折っている菖蒲とは対照的に、レイヴンはキッチリと上までシャツのボタンを留め、ネクタイは綺麗なノットで締められている。
「今晩は、皆さん。すみませんが、凌に話があるのでこのまま連れて行っても構いませんか?」
「ええ、構いませんよ葉月室長。凌、月曜日にランチ付き合いなさいよ」
「うん、有難う。ごめんね、菖蒲君も」
「気にするな。これからはいつでも会えるんだから」
菖蒲の言葉に、ピクリとレイヴンの眉が動いたことを理彩は見逃さなかった。
(クールそうに見えるのに、これじゃ凌も大変ね……)
それでは失礼しますとレイヴンと凌が乗った車が去ると、菖蒲は不機嫌そうに呟いた。
「“凌”って何だよ。秘書室は社員の名前を苗字じゃなくて名前呼びするのかよ?」
「馬鹿ね。そんなわけ無いでしょ。と言うか、あれはきっと説教じゃ無いわね」
スーパーの壁に背中を預け、手に提げていた袋の中から温くなりつつあるビールを一本取り出し、プルトップを開けて口に運んだ。
「説教じゃ無いってどう言うことだよ?」
「菖蒲君気付かなかったの? 会社からここまで車で五分くらいだけど、この時間夜間工事のせいで遠回りしなきゃならないの。信号がスムーズでも十分は掛かるわ。でも、葉月室長が来るまで五分も掛かって無いのよ。この意味、分かるわよね?」
菖蒲は唖然と理彩を見下ろした。
「近くに……、居たってことか?」
理彩はふふんと唇を緩ませた。
「多分、初めから凌を迎えに来るつもりだったんじゃないかしら。でも、店はもう閉まっていた。だから電話を掛けて来たのよ。しかも電話で凌が私達の名前口にしてたの気付いてた? きっと慌てたでしょうね、葉月室長」
事件を推理する探偵のような口振りで話す理彩。本人は楽しそうだが菖蒲には全く話が見えない。
(どうして俺達が如月と飲むことで葉月室長が慌てるんだ?)
「悪いが全く意味がわからん。小牧の口振りだと葉月室長は如月に気があるように聞こえるんだが? それに、俺達が呑むのはあの人には関係無いだろ。如月には彼氏居ないのに可笑しく無いか?」
「―――はぁ? あぁもうっ!! 今更一から説明すんのも面倒だわ。ってなわけで、凌のことは諦めなさいよ菖蒲君。あの子鈍いからアンタの気持ち欠片も届いてないわよ」
「丸投げの上に直球かよ。お前、本当容赦無いな」
「まぁね。色々割愛するけど、菖蒲君の言う通り凌には“彼氏”は居ないわ。凌、葉月室長と年内に結婚式挙げる予定だから、正しくは“婚約者”だもの。菖蒲君がどんなに凌を好きでももう望みは無いわ。恨むなら、海外に行く前に凌を口説けなかった自分を恨みなさい!!」
菖蒲を上目遣いに睨み付け、理彩はグイッと一気にビールを飲み干し、空き缶をグシャリと音を立てて握り潰した。
「結婚っ!?」
予想していなかった答えに、思わず大きな声を出してしまった菖蒲。その声に通行人が何事かとチラチラと視線を向けて来る。
理彩は菖蒲の腕を掴み、マンションの入り口がある裏側に引っ張って行く。
「大きな声出さないでよ、私が恥ずかしいじゃない!」
「わ、悪い……」
「まぁ、いいわ。本人は自覚して無かったみたいだけど、凌は菖蒲君のこと好きだったわよ。居なくなってから寂しそうだったし、その後に仕事を通して段々葉月室長を好きになって行ったみたい。去年のクリスマスに室長に告白されて、付き合うようになったの」
凌が自分に好意を持ってくれていたことに、菖蒲は仕事を選んだ当時の自分を恨んだ。
あの時、自分に恋も仕事も上手くやる自信があったなら、何か変わっていただろうか。
凌に彼氏が居ても奪う自信があると思っていた自分が、酷く滑稽に思える。
狙っていた鳥は、もう菖蒲の手の届かない遥か遠くへ飛んで行ってしまったのだ。
言葉も無く立ち尽くす菖蒲の背中を、理彩が持っていた自分のバッグで思い切り叩いた。
「―――って!!」
「男がいつまでもクヨクヨしないっ!! 今夜はパァーッとやるわよ。酒もあるし、ツマミもある。さぁ、早く部屋に案内しなさい」
腰に手を当てて偉そうな態度をとる理彩に、菖蒲は苦笑した。
(もっと他に励まし方無いのかよ。小牧らしいけど……)
きっとこれが理彩なりの励まし方なのだろう。
「……サンキュ」
素直にお礼を言えば、理彩は菖蒲に優しい微笑みを向けた。いつもの意地悪な笑顔では無い、初めて見る包み込むような優しい笑顔。
「…………っ」
瞬間、菖蒲の鼓動が大きく跳ねた。
(何だよ、今の……。反則だろ……)
この女にもそんな顔が出来るのかと、柄にも無く顔が赤くなる。受付で見る作った笑顔とも全く違う。
酒も呑んでいる為理彩には気付かれ無いだろうが、出来るだけ平静を装って言葉を紡ぐ。
「終電には帰れよな」
「大丈夫。ちゃんと化粧品や歯ブラシは買ったし、寝る時にシャツ貸してよ。どうせ私の置き部屋着は処分しちゃったんでしょ?」
抜りは無いとバッグから別のビニール袋を取り出して菖蒲に見せた。
「いつの間に……。泊まる気満々かよ」
「……凌も鈍いけど、アンタも人のこと言えないわよ。私は凌の他にも同期や後輩に仲の良い独り暮らしの女子居るのよ。しかも部屋は会社から徒歩十分。それなのにわざわざ二十分かけて菖蒲君の部屋に泊まってた意味分かる?」
理彩は社交的で誰とでも仲良くなれるタイプだ。一泊くらいなら皆気前良く泊めてくれるだろう。それなのに、理彩は敢えて菖蒲の部屋に泊まるのだと言う。
その意味が分からない程、菖蒲は鈍くは無かった。
「流石に歯ブラシと化粧品は捨てたけど、部屋着は今も置いてある。今夜泊まるなら、明日は清い身体では帰れなくなるぞ」
どうする? と、上着の内ポケットから取り出したキーケースを振って言えば、理彩は一瞬驚いた顔をした後キーケースを持つ菖蒲の手に自分の手を重ねた。
「望むところよ。私が菖蒲君を清い身体では解放してあげないから」
理彩らしい挑発的な言葉。その意思の強い瞳を見つめ、菖蒲は理彩の顎に指をかけ形の良い唇に口付けを落とした―――
遥か遠くの空を眺めていた鳥は、以前から直ぐ側に落ちていた幸せの種にやっと気付いたのだった。
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