『幸せの種』(2)
半分ほど中身が減った菖蒲のグラスに凌はビールを注ぎ足した。
「残念。当分飲めないわね」
「まぁな。日本でも良い店探すさ。お勧めの店あったら教えてくれよ」
会社周辺の地理は菖蒲も頭に入っているだろうが、それは海外へ行く前のものだ。あの頃と比べて、この辺りも大分変っているだろう。
(残業向きなのは濃い目の『トスカ』、朝なら『チープ』か『ヴィオラ』。少し会社から歩くけど、水出し珈琲なら『珈琲・楓』ね)
凌は頭の中でいくつか菖蒲に合いそうな店をピックアップしていく。
「うん。いくつかあるから近々地図を添付したメールを送るね」
「ああ。宜しく」
瞬時に答えた凌に菖蒲は舌を巻いた。
(さすが遣り手秘書)
入社して数年が経ち、しっかりしていて当然なのだが、入社後一年しか一緒に仕事出来なかったせいか凌の成長振りにどうしても驚いてしまう。
入社当初はやって行く自信が無いと何度も相談されていたが、今では第二秘書の位にまで就いている。
仕事にも遣り甲斐を感じているようで、あの頃の凌とは違い自分に自信を持っているように見える。同期からの情報だが、上司や部下からの信頼も厚いようだ。
久々に会った凌はすっかり魅力的な女性に成長していて、菖蒲の心を掻き乱す。海外研修の為に無理矢理忘れた恋心が蘇ってくる。
(計算外だ……)
研修時代から菖蒲は凌に好意を持っていた。少し物事を後ろ向きに捉えがちな所はあるが、努力家で仲間想いな所に惹かれていた。
これで男が居ないはずが無い。居たとしても、奪うだけの自信はあるのだが。
「如月は彼氏は居ないのか?」
「ん? 彼氏……、は居ないかな。どうかしたの?」
不思議そうな顔をする凌に菖蒲は言葉を濁す。
「いや、俺らももう二十六歳だろ? 俺は最低でも三年は付き合ってから結婚したいと思ってるから焦ってんだよ。海外行ってた分他の同期達よりも損してるからな」
出来るだけ自然に問い掛け、凌に彼氏が居ないことを聞き出す。
「ふふ。向こうで好い人居なかったの?」
「日本に帰ってくるの分かってて彼女なんか作るわけないだろ。こっちに好きな女居るし」
「そっか。可哀想だもんね。好きな人って会社の人? 同期? 私の知ってる限りでは同期なら若藤(わかふじ)さんと三宅(みやけ)さん以外の女子は結婚して無いよ。彼氏は居るかもだけど」
「ふ〜ん、案外既婚少ないんだな。彼氏が居ないのは確認済みだから、後はアタックするのみかな」
「さすが菖蒲君。帰国早々情報収集早いね。応援するから相談してね」
「サンキュ。情報収集は社会人の基本だからな」
午後九時を回り、飲み会もお開きになった。
店の前で同期達も各々帰路につき、残っているのは凌と菖蒲と理彩だ。
理彩の提案で何処かで三人だけで呑み直すという話になった。
「呑むなら三人の家に近い場所の方が良いよね。菖蒲君は今何処に住んでるの? 前と同じ所?」
そう言えば、と凌は菖蒲を見た。
「いや、仕事に使う物も増えてるから駅近くのマンションにした。一階に二十四時間営業のスーパー入ってるから便利なんだよ」
「スーパーってことはKマンションよね。でもあそこ家賃十万近いでしょ。駅もスーパーも病院も近くて高齢者の方に大人気。そう……、菖蒲君のせいで確実に一人のお年寄りが入居出来なくなったわけね」
高齢者はね除けて入居なんてやるじゃない、と理彩は菖蒲を小突いた。
「俺のせいって……、相変わらずの毒舌だな」
「あら、事実を言ったまでよ」
ツンッと唇を尖らせる理彩の様子に、昔を思い出す。研修時代もこうやって三人で集まり、仕事の話や他愛の無い話をした。
「まぁまぁ、理彩ちゃん。じゃぁスーパーでお酒買って菖蒲君の部屋で呑まない?」
「段ボール全部は片付けてないから散らかってけど、それでも良いなら構わないぜ」
「馬鹿ね凌。菖蒲君の家にノコノコ行ったら清い身体で帰れないわよ。菖蒲君は同期である前に男なんだから」
「ちょっと待て小牧。俺はお前に一度でも手を出した記憶は無いんだが? それに、それが家が遠いからって夜中に何回も人の家に押し掛けて来てた女の言うことかよ。泊まる度に朝飯まで食って清い身体で帰ってっただろ」
駅前にビジネスホテルがあるにも関わらず、宿代わりに異性の部屋に泊まりに来ていた理彩。使っていなかった部屋は理彩の私室と化し、いつの間にか置きパジャマや歯ブラシ、化粧品まで持ち込まれていた。
終電の終わった夜中に女性を追い出すわけにも行かず、菖蒲は渋々理彩を泊めていたのだ。
「そうよ? タダで使える宿があるのにわざわざホテルに泊まるのもタクシー使うのも馬鹿馬鹿しいじゃない。まぁ、私は清い身体で帰れたけど凌は……」
菖蒲にだけ聞こえるように囁かれた意味深な言葉。
瞬間、菖蒲は顔をひきつらせた。
(こいつ、俺が如月を好きなことに気付いている?)
もし凌が今日酔い潰れて泊まることになっても、自分はきっと手を出さないだろう。
手を出せば凌の心は離れて行き、避けられることは必至だ。それは菖蒲の望むところでは無い。
「私がどうかしたの?」
きょとんとしている凌に理彩は意地の悪い笑みを浮かべた。
「ん〜、今日はいいけど菖蒲君の家に一人で行っちゃ駄目よ? 食べられちゃうから」
「ふふ、やだ理彩ちゃんたら。菖蒲君好きな人居るんだからそんなことしないわよ。友達なんだから、ね菖蒲君」
凌は当然という顔をしてみせた。それがどれだけ菖蒲の心を傷付けるかも知らずに。
“信頼”という言葉は時にとても残酷だ。
凌にとって自分は“異性”では無く“同期”なのだと嫌でも自覚させられる。
「そうだな。如月の身体の発育がもう少し良くならないと手は出ないな」
「――なっ!! セクハラよ菖蒲君!!」
「本当、サイテーね菖蒲君。凌の胸のボリュームが足りないのは今更よ」
「理彩ちゃんっ!!」
フォローになってないよ! と顔を真っ赤にして怒る凌に、菖蒲と理彩はあははと笑った。
(今は同期のポジションで我慢していてやるよ)
少しずつ男として見て意識させて行けばいい。凌も自分もフリーなのだから、焦る必要は何処にも無い。
スーパーを出た所で凌の携帯電話が鳴った。凌は菖蒲達から少し離れ、表示されたレイヴンの名前を確認して通話ボタンを押す。
「もしもし、如月です」
『「もしもし」は俺が言うセリフですよ、凌』
クスクスと笑われ、凌はうっと言葉に詰まった。
『今何処ですか?』
「えっと、Kマンションのスーパーの前です」
『呑み会は終わったんですね。近くまで来ているので迎えに行きますよ』
「えっ! 大丈夫ですよ。これから同期の小牧さんと菖蒲君の部屋で呑み直そうって話になってて……」
『……仕事のことでも少し話があるんです』
「仕事の話ですか? わかりました。お待ちしています」
通話を終え、仕事という言葉にまた何か失敗してしまったのだろうかと不安になる。
「凌〜、電話終わったの〜?」
ジッと携帯電話を見ていた凌に理彩が駆け寄ってくる。
「うん。何か仕事でミスしちゃったみたいで、今から室長が迎えに来るって……」
自分の言葉に気が重くなる。
「仕方ないわよ。しっかり叱られて来なさい」
「今から? 勤務時間外なのに?」
普通、仕事のミスは電話で注意することはあっても、勤務時間外に直に会って注意することは無い。菖蒲の疑問はもっともだ。
「それだけ凌に目をかけてるってことでしょ。それに、休み明けの月曜日に叱られて一日中落ち込むより今日叱られた方がスッキリした気持ちになるわよ、ね?」
理彩は励ますように微笑み、凌の頭を撫でた。女性にしては背の高い理彩は、凌よりも十センチほど目線の位置が高い。
そのせいか同い年なのに撫でられると自分が小さな子どものように感じてしまう。
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