『幸せの種』(1)
―――金曜日
社会人にとって休日はとても貴重だ。学生時代の様に一ヶ月以上の夏休みも無ければ、台風が来ても会社が休みになるわけでも無い。
凌の勤めている会社は土日祝が休み。
その為、明日の土曜日を前に金曜日の秘書室の皆はどこか浮き足立っている様だった。仕事上がりに飲みに行く者、デートに行く者、旅行に行く者。
終業のベルが鳴ると口々に「お先に失礼します」と挨拶をして一人、また一人と同僚達が退社して行く。例に漏れず、凌もその中の一人だ。
パソコンの電源を落として腕時計で時間を確認した凌はホッと息を吐いた。
(何とか間に合いそうね……)
手早く荷物を纏め、上司であるレイヴンに挨拶をする。
「室長、お先に失礼します」
「お疲れ様。呑み過ぎには気を付けて下さいね」
「……はい」
呑み過ぎと言う言葉に苦笑しつつ、まだ仕事をしている同僚達にも挨拶をして凌は秘書室を後にした。
同期入社の仲間からパソコンにメールが来たのは今日の昼休みのこと。
内容は、同期の皆で今夜飲み会をしないかというもの。飲み会を開く当日にこういったメールが送られて来ることは珍しい事では無い。
ストレスを発散したい誰かが店を押さえて昼休みに同期にメールを送り、予定の無い同期が参加するというシステムだ。
研修時代に苦楽を共にした仲の良かった同期達とは、各々部署に配属されてからもこうして半年に一回のペースで飲み会をしている。
主な話の内容は近況報告や上司や部下の愚痴。特に、愚痴を気兼ね無く溢せるのは同期ぐらいのものの為、皆ここぞとばかりに吐き出して行く。
今の部署に不満の無い凌は、これで月曜日から仲間が頑張れるならと毎回聞き役に徹している。
飲み会の場所は会社から程近いこじんまりとした居酒屋だ。
同期の一人の親戚がこの店を経営しており、普通なら予約無しの団体客を受け入れてくれる店が少ない中、毎回突然の頼みにも関わらず気を遣って店を貸切りにしてくれるのだ。
「あ〜っ! 凌おっそ〜い!」
「やっと来たか、如月」
「お疲れ、如月さん」
居酒屋の扉を開けた途端、口々に投げ掛けられる言葉。
どうやら凌が最後らしく、既にカウンターや座敷では十五人程の同期達が小料理と共に酒を楽しんでいる。
「ごめん、ちょっと残業してたから」
「秘書室ってあの社長と近いし大変そうだよね〜。あ、凌は座敷とカウンターどっち座る? 座敷なら私の隣。足の匂いに自信が無いならカウンターね!」
「おい小牧 (こまき)! それって俺達の足が臭いってことかよ!」
「営業舐めんなよ小牧! 受付でのお前の笑顔のが嘘臭いわ!」
「はぁ〜? 受付は会社の顔であり癒しだっつ〜の!」
会社で受付をしている小牧理彩 (りさ) の言葉に、カウンターに座っていた内の営業部と法務部の男二人が反論する。
程よく酒も入り、言い合う三人を他の同期達も面白そうに囃し立てる。
「理彩ちゃんも菅 (すが) 君も麻生 (あそう) 君もそのくらいにして。革靴は蒸れやすいから仕方無いよ。それだけ会社の為に頑張ってくれてるってことじゃない。私も今日はパンプスじゃないからカウンターに座るね」
「おぉ、如月も臭いの友かっ!?」
「とうとう水虫かっ!?」
「ち・が・い・ます! 靴擦れが出来たから革靴なんです。絆創膏がストッキングから透けて見えるから脱ぎたくないだけです!」
ケタケタと笑う菅と麻生にそう言い、凌は出入口に近いカウンターの席に座った。
席に着くと隣に座る男性がお手拭きや小皿、割り箸をセットしてくれる。
「有難う。あれ……、菖蒲 (あやめ) 君?」
数年振りに会う見知った顔に、凌は驚いた声を上げた。
「何だよ、その顔。店入って直ぐの場所なのに俺に気付かないとか、如月全然変わって無いな」
そう言って大袈裟に肩を竦めビールをグラスに注いでくれる菖蒲。
呆れた様な口振りだが、その顔は楽しそうに笑っている。
「だって菖蒲君が居るなんて思わなかったんだもの。いつ日本に?」
隣に座っていたのは菖蒲一慶 (いっけい)。すっきりとした整った顔立ち。深緑色のフレーム眼鏡から覗くのは、優しげな焦げ茶色の瞳。
上質な紺色のスーツを慣れた様子で着こなす姿は、さながらエリートサラリーマンといった風貌だ。
菖蒲とは研修時代に同じ班だったこともあり、同期の中では小牧の次に仲が良い。
研修後は本人の希望通り海外部に配属され、入社一年目で海外の支社に研修に出されていた。
大学時代には留学の経験もあり、その優れた語学力と柔軟な発想力が向こうでも評価されているようだ。
「帰国したのは昨日。今日は海外部と社長に挨拶をしに行ったんだ。荷物の片付けもあるし、来月までは休暇貰ってる。一日から宜しくな」
「こちらこそ。しっかり身体を休めてね。部署は違うけど、また同じ会社で働けるなんて楽しみ」
互いに微笑み合い、グラスを持って再会を祝して乾杯する。カツンと小さな音を立て、グラスの中で揺れる琥珀色の液体。
グラスに口を付ければ、ビール特有の苦味が口の中に広がった。
「ビール飲めるようになったんだな。研修の打ち上げの時に飲んだビール、初っぱなから吐いてたよな」
忘れたい昔の話を掘り返され、凌はむぅっと唇を尖らせた。
「仕方無いでしょ。ビール飲んだのアレが初めてだったし、あんな苦い飲み物だなんて知らなかったんだもの。今も苦手だけど、もうそんなこと言ってられないし」
成人したからと言って、凌は進んで酒を飲みたいとは思わなかった。
社会人になれば飲む機会も出てくるだろし、その時に飲めばいいと考えていたのだ。
(まさかビールがあんなに苦い物だなんて……)
父や弟が家で美味しそうに飲んでいた為、てっきり美味しくて飲みやすい物だと思っていた。
だからあの時の衝撃は相当な物だった。
同期達もまさか二十二歳にもなって飲酒をしたことが無いとは思っていなかったらしく、盛大に人前で吐く凌の姿に皆真っ青になっていた。
「無理に飲むと中毒とか起こしかねないからな。酒呑む練習した成果出てよかったじゃないか」
「それは皆に感謝してる。お酒は慣れる物って分かったし」
同期達の助言で毎日少しずつ酒を飲むことにした。最初は女性の好むアルコール度数の低い缶チューハイやカクテル。それから徐々に度数を上げていく。
その成果か、今では日本酒や焼酎等も一通り飲めるようになった。
揚げ出し豆腐や焼き鳥を食べ、話は昔話から菖蒲の海外生活へと移る。
菖蒲が向こうで住んでいたアパートの近くにある珈琲ショップの店主は、女性客にはオマケをしたりしてサービスが良く、その反対に同性である男性客には冷たく、溢れた珈琲のカップを渡したりワザと注文とは違う珈琲を渡したりしていた事など、海外での生活を面白可笑しく語った。
「男には態度悪いけど、美味いからついつい通っちゃうんだよな」
悔しそうに文句を口にする菖蒲。
きっと他の男性客も菖蒲と同じ気持ちだったのだろうと凌は思う。
雑な扱いに怒りを感じながらも、珈琲を一口飲めば「まぁいいか」と思ってしまう。
アパートで「仕方ない、また行ってやるか」と珈琲を飲んで口にする菖蒲の姿が目に浮かんだ。
NEXT 聖夜TOP