『三年先まで待てない』(1)
(「幸せの種」菖蒲×小牧続編)




 日本に戻って早三ヶ月。仕事や部署の雰囲気にも慣れ始めた。
 海外部に配属されて一年経たずに海外研修に出された為、部署の顔ぶれが随分と変わっていることに驚いた。
 一番驚いたことは同期の如月凌の弟が部下になったことだろうか。

 午後十時過ぎ、菖蒲はパソコンの電源を落とし大きく伸びをした。途端、凝り固まった身体がパキパキと小気味よい音を立てる。

 デスクの引き出しから目薬を取り出して瞳にさせば、疲れた目が少しだけマシになった。ティッシュで余分な水分を拭き取り、閑散としたフロアを見渡した。
 日中は狭く感じるフロアも、人が居ないだけで随分と広く感じる。
 フロアで明かりがついているのは菖蒲の居る一角だけだ。残っている社員も菖蒲を含めて二人しか居ない。


「如月弟、まだ書類終わらないのか」


 菖蒲の言葉に、パソコンに噛み付くような勢いでタイピングをしていた男が動きを止める。


「今プリントアウト中です。菖蒲主任、その如月弟って呼ぶの辞めて下さいって言ってるじゃないスか。俺には如月清春(きよはる)って言う立派な名前があるんスよ」


 出力した書類を片手に眉を下げて訴えてくる清春を無視し、菖蒲は無言で書類を受け取り目を通して行く。
 指摘した箇所の訂正を確認し、大きく頷いた。引き出しから判子を取り出し、インクを付けて書類に印を押す。


「はい、お疲れさん。今日からお前“ポチ”な」

「――― ポチ!? ポチって何スか!!」


 突然ポチ呼ばわりされたことに驚く清春の反応が面白くて、菖蒲はクックッと笑った。


「何お前、ポチ知らないのか? 日本人が犬につける定番の名前だろうが。因みに、猫ならタマやミケが定番」

「いやいや、知ってますよ。そうじゃなくてですね、俺人間ですから!」


 どうやら冗談の通じない所も姉弟揃って同じらしい。
 
 社会経験を積んで今でこそ冗談や嫌味を受け流すことを学んだ凌だが、入社時は社交辞令すらまともに捉えてしまっていた。
 研修時代、酔った小牧に好きだと告白され、それを真に受けた凌はどう言って断ればいいかを真剣に悩み、翌日知恵熱を出して会社を休んでしまったことがあった。
 
 見舞いに訪れた菖蒲と小牧に、真っ赤な顔で「ごめんなさい! 理彩ちゃんのこと好きだけど恋人にはなれません!」と今にも泣きだしそうな顔で頭を下げた凌の姿が今でも忘れられない。
 小牧は友人として凌を好きだと言ったのであって、そこに恋愛感情はない。
 それはその場にいた菖蒲にも分かったし、凌の耳には届いていなかったのかもしれないが、菖蒲にも「菖蒲君の取り柄って顔だけよねぇ。キザッたらしい性格は大嫌いだけど、顔は凄く好みなのよ、私。……ちょっと! ちったぁ嬉しそうな顔しなさいよ」と言われていたのだ。

 小牧も酔って言ったことは覚えていなかったが、自分のことを知恵熱が出るまで考えてくれたことに感激し、「あたし百合じゃないけど、凌だったらいつでもお嫁に貰ってあげるわよ」とまた笑えないことを言っていた。


(いや、あれは本音だよな。妹とかペット感覚で如月を欲しがったんだろ。まぁ、誤解だって分かって貰えたんだが……)


「馬鹿か。部署内では如月って呼んでるだろーが。けどどうしても被るんだよ、お前の姉と。如月を名前呼びした日にゃ小牧とあの室長様がうるせぇし、かと言ってお前を清春なんて呼んだら俺がそっちの人かと思われんだろ」

「そっちの人っ!? 困りますよ俺、中学の頃から一筋の彼女居るんスよ!! そりゃ、大切すぎてまだキスすら出来てない状況ですけど……」


(七年以上交際していてキスすらしていないなんて、いつの時代の人間だよ……。奥ゆかしいにも程があんだろ。昔の人の方が遥かに進んでるんじゃないか?)


「……名前は体を表すって言うけど、本当に名前通りの男だったのな。清らかな春……まんまかよ。俺としてはお前を名前呼びしてる男友達全員がそっちの人扱いになることをツッコんで欲しかったぜ」

「……あぁっ!! そうじゃないスか!!」


 今思いついたとばかりに清春がポンと手を打った。


「やっとかよ……」


(抜けてる所も如月と似てんのかよ……)


「ってことは主任ってホモ……いってぇ〜っ!!」

「断じて違う! そう言う繊細な言葉は迂濶に口にするな! 例えそうでも現代日本社会においてにこやかにカミングアウト出来る奴は稀だ。しかも社内。察しろ。そしてすかさず話題を変えろ」


 フロアに人気が無いからといって安心は出来ない。静かな場所では声が思いの外良く響く。何処まで届いているか分からないのだ。
 菖蒲達と同じく残業していた社員や巡回中の警備員の耳に入らないとも限らない。
 日本へ帰国して早々に同性愛者疑惑の噂を立てられるのは勘弁だ。


(海外支社に同性愛者の社員も居たが、俺も向こうで幅が広がったなんて思われたらどうしてくれるんだ!)


 同性愛に偏見は無いが、自分が男に言い寄られるなど、考えただけで鳥肌が立つ。
 頭を容赦なく殴られた清春は、殴られた箇所を手で押さえ、目尻に涙を浮かべて菖蒲を見た。


「主任今、絶対本気で殴りましたね!」


 反射的にとは言え、菖蒲の拳もジンジンと痛みを訴える程の強さで殴ってしまった。


「今のが本気じゃなかったら何だって言うんだポチ。今のが俺のヘロヘロパンチってなら、お前間違い無く本気出されたら死ぬぞ。ほら、いい加減荷物纏めろ。帰るぞ」


 これ以上付き合ってられるかと言わんばかりにさっさとコートを着込み、通勤鞄を手に一人フロアの出入口へと向かう。


「あぁー!! ポチって言った! ちょっ、待って下さいよ主任!」


 急いでパソコンの電源を切り、清春はコートと鞄を手に菖蒲の背中を追いかけた。



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