『想い描いていた女性』(3)
(「社長の上手な諌め方」続編)
「有難うございます、奏様」
和やかな空気の中、背後から聞こえた声に凌は飛び上がる勢いで驚いた。
「―――ひゃっ!?」
「それはお相手頂いた私が言うべき言葉です。レイヴン」
入り口から応接スペースは見えないが、中に入ってしまえばスペースの奥側は見えてしまう。
瑪瑙には声の主が見えているのだ。
(……激しく振り返りたくないのですが)
コツコツと二つの足音が近づいてくる。
一つは社長、もう一つは言わずもがな話題の人物である。
レイヴンは瑪瑙に『有難うございます』と言った。
それは凌の話相手をしてくれたことに対してなのか、それとも凌を導いてくれたことに対してなのか……
もし後者なら、振り返りたくない。いや、振り返るどころか今この場所から逃げ出したい。恥ずかしいし、怖い。
だってそれはレイヴンを信じていないということだから……
(それは、室長を裏切る行為――)
でも、もしレイヴンの言葉が瑪瑙を待たせたことに対する言葉だったらどうだろう。
だとすれば、普段通りにしなければ。そもそも下を向いたままでは社長に失礼にあたる。
よしっ! っと気合いを入れてソファから立ち上がりレイヴンと珀明に向き直る。
「お疲れ様でした」
振り返れば、ファイルを手にしたレイヴンと珀明が立っていた。
(あれ? 何だか社長、少し雰囲気が柔らかいような……)
いつもと同じく眉間に刻まれる皺。視線は凌を通り越し、真っ直ぐ瑪瑙を捉えている。
それはいつもの射るような視線では無く、どこか暖かみを含んだもの。
(社長でも屋敷の人にはあんな瞳をなさるのね。てっきり社内と態度は変わらないと思っていたのに……)
「お仕事ご苦労様です、珀明さん。もう終えられたのですか?」
「あぁ。予定より少し早く終わったが、……退屈だったか?」
気遣う様な珀明の問いに、瑪瑙は「いいえ」と首を横に振った。
その様子に、使用人と主人との会話にしては少し親密な空気に違和感を感じつつ、凌はファイルを自身のデスクに片付けているレイヴンに近寄った。
何となく自分が邪魔の様な気がしたからだ。
「室長、社長ってお屋敷の使用人の方には雰囲気が柔らかいんですね」
チラリと珀明達の方を見て小さな声で言えば、レイヴンはぎょっとした顔で凌を見た。
「使用人には雰囲気が柔らかいって……、そんなことありませんよ。凌も俺の扱い見て知っているでしょう」
「見てますけど……」
レイヴンと珀明は幼馴染みでもあり、主従関係でもある。
(今は屋敷にではなく会社に勤めているから、室長に厳しく接しているとか……?)
「今は社員だから厳しくなさってるとかじゃないんですか? 室長も昔は社長のお屋敷で暮らしていらしたんですよね?」
社員になったから厳しく接している。それなら、公私混同にならない様に珀明がレイヴンに厳しく当たるのも頷ける。
「奏様から聞いたんですか?」
「奏様……?」
(奏って、確か社長の奥様の名前……)
「いいえ、奥様では無く、瑪瑙さんからお聞きしました。室長と違って、一社員の私が社長の奥様にお会いする機会なんてありませんよ」
そもそも秘書や重役でなければ、本来社員にグループのトップである珀明と話す機会など無いに等しい。
社員達にとって、社長は雲の上の様な存在。
社長夫人ともなれば、更に会ったことのある社員は減る。社内では倉橋一族かレイヴンぐらいしか会ったことは無いだろう。
(本当なら今日奥様にお会い出来る筈が、いらしたのは奥様では無くお屋敷でアルバイトをしている瑪瑙さんだったし)
「お会いするチャンスだった今日も、結局はお会い出来ませんでしたし」と告げれば、レイヴンは一瞬怪訝な顔で凌を見つめ、次の瞬間には肩を震わせて笑い出した。
「ちょっ! ……室長っ!?」
(何で急に笑い出すんですかっ!!)
「くっくっ……、失礼。あの方が“瑪瑙”と名乗ったのですか?」
「そ、そうですけど?」
一頻り笑ったレイヴンの発した不可思議な言葉に凌は首をかしげた。
(瑪瑙さんは“瑪瑙”さんじゃないの?)
まるで謎かけ。しかし、いくら考えても答えは出て来ない。
「葉月、如月何時までそうしている気だ」
その声にハッとして声のした方を見ると、珀明と瑪瑙が此方を見ていた。
珀明の右手は瑪瑙の腰に回り、寄り添う様に立つ二人。
その姿はまるで、恋人同士のよう―――
「すみませんね、お待たせしてしまって」
全く悪いとも思っていないレイヴンの言葉を珀明は鼻で笑った。
「お前のことだ、どうせくだらん話をしていたのだろう」
「そんな風に思われていたなんて、心外ですね。まぁ、面白い話ではありましたよ。とてもね」
とてもね、の部分でレイヴンは凌の肩を手で叩いた。先程のことを思い出したのか、肩に伝わる僅かな手の震え。
凌からレイヴンの顔は見えないが、恐らく笑いを堪えているのだろう。
「どんなお話をしてらしたのか、お伺いしてもいいですか?」
「ええ、構いませんよ。“瑪瑙さん”も関係していますからね。社長の奥様についてお話していたんですよ」
興味を持った瑪瑙にレイヴンは口元に手を当て、笑いを堪えながら言った。
「私……、ですか?」
まさか自分が話題の中心だと思わなかった瑪瑙は、驚いた顔でレイヴンと凌を見た。
その瞬間、秘書室に重苦しい空気に包まれた。
背筋に悪寒が走り、込み上げてくるのは言葉にならない恐怖。
「貴様が軽々しく“瑪瑙”と呼ぶな」
地を這うような低い、低い声―――
射殺すような鋭い眼光で、珀明はレイヴンを見据えた。
(“瑪瑙”と呼ぶなってどうして……? 社長はどうして室長が“瑪瑙さん”と呼んだだけで怒っているのかしら? 室長がこんなにも怒られるなら、私なんて……。名前を呼んだだけで怒られるなら、自分は今日何回“瑪瑙さん”と口にしただろうか……)
凌は恐怖で気が遠くなった。
「珀明さん! 本来なら“奏”の方が二つ名のようなものなんですから、私は“瑪瑙”と呼んで頂いても構わないんですよ」
「駄目だ。しかも何だレイヴン、『社長の奥様について』とは。如月に瑪瑙の何を話した」
「本当、奏様のことになると心狭いですね。深い意味はありませんよ」
(“奏”が二つ名? それに室長、今瑪瑙さんを“奏様”って……)
納得出来ない珀明を宥める瑪瑙に、どこか楽しげなレイヴン。
完全に凌一人が置いてきぼりだ。
「あ、あのっ! 全く話が見えないんですけど……、“奏”様が社長の奥様なのですよね? 瑪瑙……さんは社長のご自宅に仕えている方ではないの、ですか?」
「…………?」
「え……?」
勇気を振り絞って口にした言葉に、珀明と瑪瑙は驚いたような唖然としたような顔で凌を見た。
何とも言えない微妙な空気が四人を包む。
(私、もしかして何かとんでもないこと言った、のかな? それにまた瑪瑙さんって呼んじゃったし!)
真っ青になりながら珀明と瑪瑙の様子を伺うと、目の合った珀明が口を開いた。
「如月の言う通り、私の妻の名は“奏”だ。そして、瑪瑙は使用人では無く私の妻だ」
「瑪瑙さんが……奥様っ!?」
(と言うか社長、奏様と瑪瑙さんが妻って……まさかの二股発言ですか!? それとも、倉橋一族って一夫多妻制なの? しかも瑪瑙さんまた子どもじゃない! なのに他に奥さんが居るなんて!)
「見損ないました社長! 日本は一夫多妻制じゃないんですよっ!? こんな幼い女の子を手篭めにするだなんて、最っ低です!」
(社長のことを尊敬してましたけど、やっぱり性格破綻者だったんですねっ! 瑪瑙さんて明らかに十五、十六歳くらいじゃない。社長は十歳近く歳の離れた分家の一人娘との政略結婚したって話だけど、十歳差どころじゃないですよねっ!? それだけでも可哀想なのに、自分以外にも女が居るなんて……!)
ワナワナと怒りで震える凌に、珀明は溜め息を吐いた。
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