『罪』Side信*(1)
比較的立地のよい場所に、信の所属する広瀬(ひろせ)法律事務所のオフィスビルはある。
所属弁護士は所長を含めて八人。それぞれに専門分野が違い、所属事務所と言っても、テナントを貸していると言うようなスタイルをとっている。
「何か良いことでもあったんですか? 長堀先生」
自分のデスクで資料に目を通していると、斜め右に置かれたデスクでパソコンを操作している秘書の日夏(ひなつ)が声を掛けて来る。
「おや、そんな風に見えたかい?」
書類から顔を上げて日夏の方を見れば、彼女は楽しそうに口元に指をあててウフフと笑った。
「ええ。明日から週末で裁判所も休みですから、息子さんとゆっくりできますね?」
「そうだね。けど、千早も仕事で忙しいみたいでね。日夏君も週末は家族団欒で過ごすのかい?」
「そりゃぁもう。うちは新婚ですからね。旦那とラブラブして過ごしますよ」
うっとりしながら囁かれた日夏の言葉に、信は「うん?」と首を傾げた。
(……新婚?)
「確か、君の所は結婚八年目で子どもが二人居たと記憶しているんだが……」
前に七歳の息子と五歳の娘の話をしていたからだ。
「だから気持ちですよ、気・持・ち。旦那とはいつまでもラブラブでいたいんです」
「それはそれは……」
「これは愛妻家ならぬ愛夫家だな……」と信は心の中で思った。
(結婚八年目で新婚とは……)
「相変わらず日夏君は面白いことを言うね。旦那さんは幸せ者だ。午後もその調子で頼むよ」
日夏の言葉に笑いながら、信は出掛ける準備をする。午後から国選弁護人として裁判所へ行くからだ。
国選弁護人とは、経済的理由から弁護士を雇えない被告人の弁護を行う弁護士のことを言う。
「今日のって、どう考えても有罪の被告人の弁護ですよね? 先生も、よくそんな人の弁護を引き受けましたね」
今日は四人の女性と子どもを殺害した男の弁護だ。判決次第では無期懲役の可能性も多分にある。
信とて、力の弱い女や子どもを殺す男の弁護などしたくはない。
「こればかりは仕方ないね。そんな彼等の弁護をするのも弁護士の仕事だよ」
善くも悪くも、弁護士という職業は人の恨みを買う仕事だ。
同じ弁護士で刑事訴訟を専門にしていた妻が、逆恨みをした被告人によって殺されてしまったように。
「行ってくるよ。裁判が終ったらそのまま帰るから、時間になったら君も帰りなさい」
「はい。いってらっしゃい。お気をつけて」
日夏に見送られ、信は弁護士事務所を後にした。
今日は大変な一日になりそうだ、と信は青空を見ながら思った。けれど、不思議と嫌ではない。
「蓮のおかげ、かな」
今夜は蓮と一ヶ月ぶりに会うことになっている。
自分を気遣ってメールや電話などの連絡は必要以上に取って来ない。
(――もっと甘えてくれて構わないんだよ)
甘えることが苦手な年下の恋人の顔を思い浮かべる。千早と同じぐらい、いや……それ以上に大切な女性。
蓮への想いを馳せながら、信は法廷へと向かった。
***
「信さん、大丈夫? 顔色悪いよ?」
蓮の声に信は意識が引き戻され、自分が考え事をしていたことに気付く。
裁判が終ったその足でホテルのラウンジへ向かい、蓮と合流したのだ。
そして今は、ホテルの一室で蓮と食事をしている。
向かいに座る蓮は、じっと信の顔を心配そうに見つめている。
(年下の恋人を不安にさせているようでは、自分はまだまだ弱い……)
「いや、少し仕事で疲れているだけだよ。蓮も会社に学校と大変じゃないかい?」
さり気なく話題を変えながら、蓮に話をふって食事を再開する。
「私は平気。学校は本当は行かなくて良いし、会社は優秀な秘書や社員達が動いてくれているもの」
信が食事を再開したのを見ながら、蓮は微笑む。
蓮は既にイギリスの大学を十四歳で卒業している。
十四歳で祖父から受け継いだという会社を守らなければならない蓮は、どれ程の重圧に耐えているのだろうか。
「そう。けれど、無理をしてはいけないよ」
「うん。有難う」
他愛もない話をしながら食事を進めていきながらも、信の心が晴れることはなかった。
***
シャワーを済ませ、ベッドの端に座りながら信はスーツをハンガーにかけ、上着の襟についているメッキの剥がれかかっている弁護士バッジを見つめた。
『弁護士になんて役に立たないじゃねぇか! アンタのせいで無期懲役だ!』
法廷で有罪が確定した後、被告人に罵られた言葉が頭から離れない。
罪を犯した彼等を弁護するのも弁護士の仕事だ。
弁護士バッチの向日葵は正義と自由を。天秤には公正と平等、そして公平さの意味を持つ。
どんな弁護の時も、それを忘れてはならない。それでも、こんな日は鬱々としてしまう。
信は弁護士バッチを見つめ、瞳を閉じた。
目を閉じて暫くすると、信の座るベッドの反対側からギシッとスプリングが軋む音がした。
そして、信は背中から包み込まれるように、後から伸びて来た腕に抱き締められる。
「信さん……」
シャワーを浴びた蓮からは甘い香りがして、信は蓮に抱き締められ目を開ける。
「……蓮」
振り向こうとすれば、首に絡められた腕によってそれは叶わない。
「そのまま聞いて……。信さん、仕事で辛いことがあったんでしょ?」
「……そうだね」
「でもね、信さんは自分の正義を貫けば良いの。天秤は公正と平等、公平さ、向日葵は正義と自由。そのバッチに誓った信さんの信念を」
胸に溜まったわだかまりや、やる瀬なさを包み込むように、蓮の言葉が胸に響く。
首に回された手に、力が込められる。
「信さんは人が善すぎるのよ。お願いだから、自分を責めないで……」
消え入りそうな声で耳元で囁かれる。
(蓮……。どうして君は、こんなにも強いんだろうね)
きっと千早から、国選弁護人を引き受けたことを聞いていたのだろう。
「……有難う」
何があったか気付きながらも深く聞かず、ただ優しい言葉をくれる。
蓮の気遣いが嬉しくて、心の底から暖かくなった。
まるで潮が引いていくように、鬱々とした気持ちが消えていく。
信は首に回っている蓮の腕を退かし、ベッドに座る蓮の身体に向き合い、抱き締めてキスをする。
互いの唇を触れ合わせ、感触を味わうように啄み、やがて舌を絡めるような深い口付けにしていく。
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