「最終話 瑪瑙」(1)
「今日は部屋から一歩も出るな」
朝、食堂で一緒に食事を摂っていた珀明が言った。
「どうしてですか?」
いつになくピリピリとした珀明に、奏もいつもの様に大人しく引き下がることはしなかった。
奏のいつもとは違う態度に、珀明は切れ長の瞳を細めた。
「お前には関係のないことだ」
何の感情も含まれていない、突き放す様な冷たい言葉。
関係ないと言われてしまえば、奏はもう黙るしか無かった。
「……分かりました。申し訳ありません」
食事を終えて部屋に戻ると、瑪瑙が花瓶に活けられた薔薇にじゃれて遊んでいた。
「駄目よ瑪瑙。花瓶が倒れたらどうするの」
瑪瑙を捕まえようとテーブルに近づき、手を伸ばすと瑪瑙は逃げるようにテーブルから飛び下りた。その弾みで瑪瑙の体が花瓶に触れる。
「ニャッ!」
「危ないっ!」
鈍い音を立てて傾いた花瓶は、瑪瑙の着地した場所に落下して行く。
奏は瑪瑙を庇うように駆け寄って抱き締めた。
音を立てて花瓶が割れ、零れた水がスカートに飛び散った。
「ニャーッ、ニャー」
腕の中の瑪瑙が元気な鳴き声に、奏はホッと胸を撫で下ろした。
「痛っ!」
瑪瑙を抱き、立ち上がろうとした瞬間、足の裏に鋭い痛みが走った。
履いていたミュールを脱ぎ、足の裏を見ると割れた花瓶の小さな破片が刺さっていた。破片を取り除くが、思ったよりも深く刺さっていたのか傷口から流れる血液は止まる気配がない。
(……どうしよう)
部屋に救急箱は無く、何故か内線も繋がらない。
(……大丈夫よね。少しくらいなら出歩いても)
奏は傷口をハンカチで縛り、ルームシューズを履いて部屋を出た。
廊下に出て葉月やメイドの姿を捜す。
(今日はお客様がいらっしゃるから、珀明さんと葉月さんは応接室にいるのかしら……?)
応接室のまで行くと、うっすらと開いていた扉の中から男性の怒鳴り声が漏れて来る。
「ほぅ。口で敵わないなら実力行使か? 哀れだな」
感情的になった男に、冷ややかな声で珀明が囁いた。
(実力行使って……)
穏やかではない会話に、奏は扉に手をかけた。その時―――
「んんっ!」
背後から伸びてきた手に、口を塞がれてしまう。
後ろを振り向くと、奏の部屋付きのメイドの姿があった。
(どうして……?)
驚き戸惑う奏に、メイドは不敵な笑みを浮かべた。
「駄目じゃない、奏様。あの男は部屋を出るなって言っていたのに」
いつもと全く雰囲気の違う彼女に、奏は背筋が凍るのを感じた。
「あら可愛い。怯えているの? でも残念。本番はこれからよ」
「んーっ!」
メイドはもう片方の手で奏の左腕を後ろに捻り上げ、そのまま部屋の中へと連れて行った―――
***
珀明は葉月を伴い、招かれざる客の待つ応接室へと向かった。
「待たせたようだな」
部屋では来客用のソファに座り、葉巻を吸う叔父・倉橋光明の姿があった。
「仮にも叔父に随分な態度じゃないか」
紫煙を吐き出しながら、光明は珀明を睨む。
「そうか。ならば其方にも一族当主である私を前に、その傲慢な態度を改めて貰いたいものだ」
倉橋一族は当主に逆らうことは出来ない。だが、当主候補だったこの男は違う。未だに自分が当主に相応しいと思っている。
当主の座を逃した光明は、倉橋一族に繁栄をもたらす『奏』を手に入れようとした。
本家の人間しか『奏』が誰かを知らない。光明もその一人だ。
「ふんっ、“奏”を利用して会社を保っているくせに、偉そうなことを」
「“奏”の能力を利用するまでもない。私にとって、お前が横領した額もたいした痛手にもならない」
「横領などしとらんわ! それは“奏”の父親がしたことだろう!」
「罪を擦り付けたのはお前だ。バレていないとでも思っていたのか? まぁ、お前のその馬鹿な行いで娘を手に入れることが出来たんだから、感謝はしておこうか」
光明は奏の父親に罪を擦り付け、その罪を黙っている代わりに奏を差し出せと迫ったのだ。それを珀明が不問にする形で奏を手に入れた。会社の上司とはいえ、当主の言うことの方を優先させなければならないからだ。
「何とでも言えばいい、お前が死ねば儂が当主になるのだからな」
(やはり、そうか……)
スーツの懐から拳銃を取り出し、光明は銃口を珀明に向けた。
「ほぅ。口で敵わないなら実力行使か? 哀れだな」
銃口を突き付けられても全く動じない珀明に、光明は怒りを滾らせる。
光明に言った前当主の言葉を思い出す。
『お前は直ぐに感情に流される。そんなことでは冷静な判断は下せぬぞ』
(前当主の言葉すら守れないお前が、当主になれるわけがない)
「葉月」
「はい、こちらに」
ソファの後ろに控えている葉月に合図すると、葉月はサイレンサー付きの拳銃を珀明に差し出した。
珀明が拳銃を持っているとは思わなかったのか、光明の表情が変わった。
「トリガーを引くのは、此方の方が早いぞ」
向かい合って銃口を突き付け合う。
ピンッと張り詰めた空気の中、応接室の扉が開かれた。
「―――!?」
扉に目を向けると、そこにはメイドに口を塞がれた奏の姿があった。
***
部屋の空気は張り詰め、噎せかえるような紫煙と香水の香りに奏は軽く咳こんだ。
目の前には、拳銃を突き付け合う珀明と壮年の男性の姿。
(誰……?)
「此方の勝ちよ。奏様を傷つけられたく無ければ、銃を下ろしなさい」
メイドは奏を男の傍まで連れて行き、珀明の方へ奏の身体を向けさせた。
後ろで腕を拘束していた手を外し、スカートからナイフを取り出し奏の喉元に突き付ける。
男はニヤリと笑い、珀明に言った。
「銃を下ろせ。でなければ“奏”が傷付くことになるぞ」
そう告げられても、珀明は男の言葉に顔色一つ変えることはなかった。
珀明の落ち着いた態度に、次第に二人は動揺し始めた。
(私を殺しても、珀明さんは困らない……)
心の中で奏は呟き、静かに珀明を見詰めた。
もう何も、怖くはなかった。それよりも、珀明にとって自分が必要の無い人間であることが悲しかった……
「痩せ我慢も大概にしたらどう?」
「……っ!」
メイドが首で固定したナイフに力を込める。薄く肌を切られ、肌がチリリと痛んだ。
その瞬間、珀明の纏う気配が変わった。
「そいつにそれ以上傷を付ければ、お前たちを殺してやる」
感情を押し殺したような、低い声。
ゆっくりと、珀明は足を前へと進めた。
「生憎、私はもう子どもではない。お前は考えもしなかっただろう? 次期当主候補だった父と母を殺せば、次は叔父上が当主になる。だが前当主は、お前が利用価値があると生かしておいたその息子を当主に選んだ」
(この男の人が、珀明さんの叔父様? 叔父様が珀明さんの両親を、……自分の兄弟を殺したというの?)
「煩い!」
暴かれる真実に、男は引き金に指をかけた。
メイドも奏の喉元に向かって、刃物を振り落とす。
奏は覚悟を決めて、瞳を閉じた。しかし、覚悟した衝撃が訪れることは無かった。
銃声が聞こえ、風が身体を通り過ぎるような錯覚が訪れる。
「きゃぁぁ!」
悲鳴と鈍い音が聞こえ、口を覆っていたメイドの手が外された。
支えを失った身体が傾く。けれど、直ぐに力強い腕に抱き締められる。
目を開けると、葉月が光明を薙ぎ倒している所だった。
奏を支えているのは、珀明の腕―――
珀明は倒れて動かなくなったメイドの髪を引っ張り、顔を上げさせた。
「……はぁ……、ぐ……」
「お前が叔父上の差し金であることは最初から分かっていた。脅されているなら命は助けてやるつもりだったが、猫の爪に毒を塗ったり庭にタランチュラを放つのは遣り過ぎだ」
(毒にタランチュラ……? だから屋敷から出るなと言ったのですか……?)
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