「第三話 “奏”」(3)



 ただそれだけで、嬉しかった。
 奏は青年に“奏”になりたくないことや、力のことを話した。
 幼い子どもの話にも、青年は馬鹿にせず根気よく聞いてくれた。今思えば、儀式の参加者の誰かの子どもだったのだろう。
 全てを話し終えると、青年は微笑んだ。

「瑪瑙は大丈夫だよ。力を使いたくなければ使わなければいい。“奏”の力は倉橋本家以外の者にとっては言い伝えなんだ。君が大人になった時、もしかしたら『奏』の力は必要無いかもしれない。けど、倉橋本家にとって君の力が必要な未来だったら、俺があの当主から君を守るよ」

「本当……?」

「あぁ。約束だ。印にこれをあげるよ」

 そう言って差し出されたのは、薔薇を模った銀色の指輪だった。

「これは世界に一つしかない対の指輪。俺もこの指輪を持っているから、瑪瑙も大切にしてくれよ」

 指輪を受け取ると、彼は誰かに呼ばれて戻っていった。
 たったそれだけの出会いだけれど、あれは初恋だったのだと今になって分かる。後で両親に青年のことを聞いたけれど、結局彼が誰だかは分からなかった。
 青年が助けてくれると言ってくれた当主は亡くなり、彼との約束は無くなった。
 けれど、もう一度だけ彼に会いたい。

(彼なら私を、珀明さんから救ってくれるかもしれないから―――)


***


「ん……」

 日だまりの中、奏は目を覚ました。
 眠っていた時間は長くないようで、あれから一時間も経っていなかった。

「あ……」

 身体は綺麗に拭かれ、服は引き裂かれたワンピースではなく、新しいネグリジェだった。

「起きたか」

 窓辺に立っていた珀明が、奏の方を見る。
 開け放たれていた窓は、今はもう閉められている。

「これから食事を運ばせる」

「え? ……い、要りません」

 まだショックから抜け出せず、食欲が湧いて来ない。

「そうか、ならさっき言ったことを実行しなければ、な」

 不敵に、珀明が笑う。

『シェフとメイドに罰を与える』

 あの時の珀明の言葉が、頭を過ぎる。

「……頂きます」

「ガウンを羽織って席につけ。今から運ばせる」

 珀明が部屋に備えつけられている内線で指示すると、直ぐにメイドと葉月が食事の乗ったワゴンを押してやってくる。
 テーブルの上には、温かなコーンスープと一口サイズの小さなパン。 一枚のプレートに、こちらも色とりどりに一口サイズの料理が品よく盛られている。

「奏様、召し上がって下さい」

 先程のメイドが紅茶を注ぎながら促す。
 一口サイズの料理は、僅かにだが奏の食欲をかき立てた。

「頂きます」

 奏はフォークとナイフを手に持ち、食事を始めた。
 珀明は奏が食事を開始すると、葉月と一緒に部屋を出て行った。

「ふふ……。奏様、先程より食がお進みになられてよかったです」

 お代わりの紅茶を注ぎながら、メイドが嬉そうに話しかける。

「有難う」

「いいえ、私たちもいいものを聞かせて頂きましたから」

「何を、ですか?」

(まさか、珀明さんとの……?)

 背筋がヒヤリとする。

「三十分程前に主様より厨房へ内線が御座いました。その内容が、奏様へお出しするお食事の指示でして。そんなご指示は初めてのことでしたから、シェフも張り切って」

「珀明さんが……?」

「はい。食欲のない奏様が食べやすい物を、と」

(珀明さんが、私の為に……? それとも、これも子どもを産む為?)

 気まぐれな珀明の優しさに、分からなくなる。

(惑わせたりしないで欲しい……。その少しの優しさを、弱い私は信じてみたくなるから―――)




 ―――その頃、葉月と珀明は廊下を歩いていた。

 携帯電話で話す珀明の後ろでは、葉月が珀明の上着と鞄を持っている。

「……あぁ、勝手に社を抜け出して悪かった。……大丈夫だ、今から戻る」

 通話を終えた珀明に、葉月が「申し訳ありません」と頭を下げた。

「珀明様には、わざわざ会社を抜けて来て頂きまして」

「構わん。私が勝手にしたことだ。これからも何かあれば知らせろ」

 昼間の突然の帰宅は、葉月からの奏の連絡から始まった。
 珀明は奏のことが気掛かりで、会社を抜けて帰ってきたのだ。

「はい」

 玄関に着き、葉月は珀明に鞄を差し出した。

「で、今日は?」

 珀明の纏う空気がピリピリと張り詰める。
 葉月も、いつもの温和な顔はなりを潜め、目つきも鋭くなる。

「はい。東棟の窓に石が投げ込まれ、ガラスが三枚割られています。また、庭師によれば奏様用の花もお部屋に届けるまでの間に何者かの手によって毒性の強い花に変えられていたそうです」

 玄関の扉を開けながら、珀明の質問に答える。

「猫の次はガラスに毒か……。呆れた手法だな」

 あの時の黒い猫は、偶然敷地内に迷い込んだのでは無い。
 母猫は数日前に敷地の外で他の生後間もない子猫の死骸と一緒に見つかっている。あの子猫だけが生き延び、敷地内で暮らすことは不可能だ。
 そして何より、あの子猫の爪には毒性の強い薬が塗られていた。引っ掻かれ傷が深ければ死に至る程の。

「奴らもいい加減焦れて来たということか。攫うなら庭園に出ている時が狙い目だが、許可していないからな。屋敷に居ることが危険だと思わせ、あいつを外に出した瞬間に決めるつもりだろう」

「珀明様……」

 心配そうに、葉月が声を掛ける。

「分かっている。三ヶ月も泳がしておいたんだ。そろそろ私も飽きてきたところだ」

 そのまま、珀明は葉月に開けて貰った扉から正面に横付けされた車へと向かう。
 葉月は珀明を見送り、玄関の扉を閉めた。

 奏の知らない水面下で、確かに事態は刻一刻と変化していた。



「第三話 “奏”」終


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