「第三話 “奏”」(1)



 もう何度目か分からない言葉のやり取りが、今日も珀明の書斎で行われる。

「お願いします。外に出して下さい」

「駄目だ」

 手元の書類から顔を上げること無く告げられる非情な言葉に、奏は唇を噛み締めた。

「どうして駄目なのですか? ずっと屋敷の中に居ては私だって息が詰まります。それならせめて、庭園に出して下さい」

 屋敷に連れて来られてから三ヶ月以上の月日が経ったが、その間一度として屋敷から出ることは許されなかった。
 実家に居た時も敷地の外へ出ることは許されなかったが、家には主婦である母が話し相手になってくれていた。平日も家庭教師が勉強を教えに来てくれていた為、退屈な思いをすることはなかった。
 此処に来てからは話し相手も居らず、毎日時間を持て余す日々。

 ―――もう限界だった。

「駄目だと言っている。必要な物があるなら葉月に言え。服でも宝石でも、必要があれば業者を呼んで部屋を改装させてもいい」

 頑なな奏の態度が気に障ったのか、その言葉には僅かに苛立ちが含まれている。

(この人は、上質な服や宝石を与えれば女性が大人しくなると本気で思っているの?)

 だとすればお門違いもいいところだ。

「私はそんな物欲しくありません!」

 ただ外に……、せめて庭園に出たい。そんな些細な願いすら叶わない。それ処か、物を与えれば言うことを聞く女だと思われているのだ。悔しくて涙が零れそうになる。

「……わかりました。お仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ありません」

 珀明に背を向けて書斎を出ようとすると、部屋にノック音が響き珈琲を二つ乗せたトレイを手に持った葉月が入って来た。

「奏様……」

 話が聞こえていたのだろう、葉月が気にかけて名前を呼んでくれる。
 奏は葉月に軽く頭を下げて部屋を後にした。
 奏の背中を見送り、葉月は珀明に聞こえるようにわざと大きな溜息を吐いた。

「何だ、葉月」

 珀明は書類から顔を上げ、葉月を睨んだ。

「いえ、ただもう少しお優しくされては如何ですか? あれでは奏様が余りにも……」

「黙れ」

 珀明の余りの態度に、葉月は言葉を強めた。

「珀明様!」

「……あいつは何が気に入らないんだ」

(何故あいつは葉月に何も望まない……)

「珀明様。奏様は今までの財力や権力を目的とした女性たちとは違います。庭に出たければ私に言霊を使えばいいことです。しかし奏様は私や使用人にお使いになられません」

 葉月は奏の振る舞いを思い出しながら、諭すように言った。
 葉月の言葉に珀明は椅子から立ち上がり、後ろにある窓から外の景色を眺めた。眼下には、庭師が丹精込めて手入れをしている庭園がある。

「……あいつは誰よりも言霊を嫌っているからな」

 誰に聞かせるでもなく、小さな声で珀明は呟いた。

 他の者が羨む『奏』の能力を―――


***


 ―――あれから四日。

「奏様。もうお下げしても宜しいのですか?」

 食堂で食事を終えた奏に、メイドが心配そうに尋ねた。
 食事に殆ど手をつけられていなかったからだ。

「お口に合いませんか? それでしたらシェフに言って何か別の料理を……」

「いいえ。気遣ってくれて有難う。ごめんなさい、残してしまって。もう部屋に戻ります」

 奏は席を立ち、自室へと戻って行く。
 あの日から、気分が優れず食事が喉を通らない。

(せっかくシェフが栄養を考えて作ってくれているのに……)

 自室のソファに座り溜息を吐く。

「心配をかけるなんて……」

 この屋敷に使える人々は、奏にとてもよくしてくれる。
 部屋に飾る花瓶の花は毎日取り替えられ、食事はシェフの気遣いや優しさが感じられるものばかり。そして皆は、この屋敷で……珀明の下で働くことに誇りを持っているようだった。

(私の知らない優しさが、あの人にあるの?)

 ソファの背凭れに身を預け、瞳を閉じる。そうすれば、開け放たれた窓の外から鳥のさえずりや、木々が風に揺れる音。庭師が花壇に水をやる水音が聞こえてくる。
 午後の日差しは優しくて、奏はゆっくりと息を吐いた。

「―――っ!?」

 音に耳を傾けていると、急に屋敷の中が騒がしくなった。扉の外からは、絨毯が敷いてあるのにも関わらず足音が聞こえて来る。

(何……?)

 屋敷の使用人たちは、こんな足音を立てたりはしない。

(だとすれば……)

 奏の目の前で、部屋の扉が大きな音を立てて開かれた。
 いつもより深く刻まれた眉間の皺。眇められた冷たい瞳。彼の纏う気配に、背筋が凍り付きそうになる。

「珀明さん……、どうして……」

「どうして、だと?」

 奏の方へ、珀明が近づいてくる。奏は怖くて、ただ立っていることしか出来ない。
 息がかかる程近くにまで詰め寄られ、下を向く奏の顎に冷たい指がかかった。
 指を持ち上げられれば、顎が浮き上がり否応無く珀明の顔を見上げる形になる。
 目の前には何の感情も浮かんでいない、珀明の暗い……闇い瞳。

「ここの所、お前が食事をまともに摂っていないと聞いてな」

「え……?」

(それって、私を心配してくれているってこと?)

少しだけ、心が温かくなった。けれど―――

「最近抱き心地が悪いのはそのせいか? お前には私の子どもを孕んで貰わなければならないんだ。食事を抜かれては困る」

「なっ!?」

(子どもを孕むって……。やっぱりこの人にとって、私の存在価値は……)

「私は、貴方の子どもなんて産みません! 貴方に抱かれる度、言霊を使っているんですから」

 珀明を睨みつけ、顎を掴まれている指を払う。
 奏の言葉に、珀明は可笑しそうにクスリと僅かに口角を上げた。

「何が可笑しいんですか?」

「忘れたのか? 私には言霊は効かない。つまり、私がお前の胎内に放つものにも効かないということだ」

「う……、そ……」

 信じられなくて、声が震える。

(じゃぁ今回生理が来たのは……、偶然……?)

「お前がそんなことを言うということは、今回は孕まなかったようだな……」

 言外に、運がよかったな……と、言われた気がした。

「だが次は……、来るとは限らないわけだ。毎回溢れる程注ぐことにしようか」

 ニヒルに笑い、ドンッと奏の身体をベッドの上に突き飛ばした。

「きゃぁっ!」

 スーツの上着とネクタイを外しながら、ゆっくりと珀明が近づいてくる。

「いや……、来ないで……」

 これから行われることを思うと、恐怖でドクドクと心臓が音を立てる。
 ジリジリと後ろに後ずさろうとするが、身体が震えて上手く動かない。

「どこに逃げるつもりだ? 帰る場所も無いのに」

 珀明の言葉に、ズキリと胸が傷む。

『帰る場所も無いのに』

(帰る場所なんて、きっと私には『奏』になってから何処にも無い)

 本家の当主の間で、上座に座っていた壮年の女性。

『そなたは今、この時より“奏”になる。一族の為だけにその力を使い、その生涯を終えなさい』



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