『好きだからこそ』(1)



 少しずつ冬の寒さが和らぎ、もうじき春を迎えるある日の午後、二階の廊下には、声を荒げ扉を激しく叩く珀明の姿があった。


「瑪瑙っ! 此処を開けろ!」

「い、嫌です! ……今は、珀明さんに会いたくありません!」


 珀明の怒声にビクリと肩を震わせ、鍵をかけた扉に背を預けギュッと目を閉じ、奏は叫んだ。


「葉月! マスターキーを渡……」

「無理に開けたら、珀明さんのこと嫌いになります!」

「―――っ!」


 奏に言葉を遮られ、珀明は舌打ちした。頑なに話を聞こうとしない奏に珀明は打つ手が無い。


「……そうか、ならもういい。勝手にしろ」


 珀明はそう言い捨て、葉月を伴い奏の部屋を離れた。
 廊下の離れた場所から心配そうに見守っていた使用人達も、葉月に注意される前に持ち場へと戻って行く。


(時間が経てば瑪瑙も頭が冷えるだろう……)


 時間が解決してくれる。その考えが甘かったことを、珀明は後に身をもって知ることになる―――

 

 廊下が静かになり、奏はホッと息を吐いた。
 扉に背中を預けたまま、ズルズルと絨毯に座り込む。


 『勝手にしろ』


 突き放すような珀明の言葉を思い出し、奏はキュッと唇を引き結んだ。
 確かに部屋に逃げるなんて褒められたものではない。
 しかし、奏はどうしても珀明に会いたくなかった。会えば何を口にしてしまうか分からないからだ。
 そして、口にした時に返される珀明からの言葉が怖かった。


(珀明さんだって悪いんです……。他の女性とキスなんてするから……)


 昼間に見た光景を思い出すだけで、胸が締め付けられた様に痛む。
 これを世間では浮気や不倫と言うのだろうか?


(珀明さんの馬鹿……)


 目頭が熱くなり、溢れ出る涙を必死に堪えるが、暖かな液体が頬を伝う。


「ふっ…ぇ……」


 奏は膝を抱え、声を殺して一人静かに泣き続けた―――



***



 ―――数時間前



「今から客が来る。客が帰るまでここには来るな」


 隣で携帯電話を操作していた珀明が溜め息を吐いて立ち上がった。苛立ちと焦りの混じった声に、奏は心配そうに珀明を見上げた。
 屋敷の来客は一族の者が多い。行事の打ち合わせや分家からの相談が主だ。今回も一族間で何かあったのだろうか。


「また一族間で何か問題でも?」

「いや……、そちらの方が幾らもマシだろうな。とにかく、お前は部屋から出て来なければいい」


 一族の者の方がマシと言うことは、来客は一族以外の者と言うことになる。


「……わかりました」


 以前、不可抗力とは言え部屋を抜け出して珀明を危険な目に合わせたこともあり、奏は来客者が気になったが素直に頷いた。



***



 奏が自室に戻って一時間が過ぎた。ポットに入った紅茶もすっかり冷め、代えの紅茶を葉月かメイドに用意して貰おうかと思ったが、仕事の邪魔になるのではと内線をかけられずにいた。
 実家が“自分で出来ることは自分でする”を教育方針にしていた為、お茶を一杯を飲みたい為だけに使用人を呼ばなくてはならないこの生活に未だ馴染むことが出来ずにいる。


「お茶を貰いに行くだけなら……」


 珀明は自室に客人が来ると言っていた。それなら、厨房へお茶を貰いに行く分には問題無いのではないだろうか。
 珀明が自室へ客人を招き入れること自体、奏には初めてのこと。それ程親しい間柄なら、以前の様に危険な目にはあわないだろう。


(どんな方なのかしら……)


 そもそも、珀明にレイヴン以外の友人が居ることが奏には想像がつかない。

 会うことは無い客人に想像を巡らせ、奏はポットの乗ったトレイを手に部屋を後にした。
 珀明と奏の部屋は二階にあり、厨房のある一階へ行くには珀明の部屋の前を通らなければならない。

 廊下へ出てゆっくりと自室の扉を閉める。廊下に珀明と客人の姿は無く、奏はホッと息を吐いた。
 ここで見つかっては叱責は免れないだろう。
 廊下には絨毯が敷かれている為歩く分には足音が響くことは無いが、足に神経を集中させて珀明の部屋の前を通る。


(……大丈夫みたい)


 しかし油断は禁物。帰りは中身の入ったポットを持って通らなければならない。
 日曜日ということもあり、屋敷内の使用人の数も平日よりも少ない。
 この時間、使用人達は交代で早めの昼食を食べている時間だ。その為、使用人達に見つかる確率も減る。

 廊下には暖かな日差しが窓から差し込み、床や壁を明るく照らす。庭に植えられた梅の花は満開になり、間もなく鶯が春の訪れを告げるだろう。


(午後から梅でお花見をするのもいいかもしれない)



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