『愛する者へ、小さな嘘を』(1)



 慣れないことに、ドキドキと胸が鳴る。
 それは、少しの罪悪感と貴方の反応を知りたい好奇心から―――


 今日は四月一日。


 この日私は、初めて貴方に嘘を吐きます―――


「珀明さん、離婚して下さい」


 まだ僅かに冬の肌寒さを残す正午前、珀明の書斎を訪れた奏は、前触れも無く目の前に座る男に告げた。
 
 言い慣れない嘘に、声が震える。
 本来ならもっと思い詰めたように口にする、とても重いセリフ。

 嘘を吐いて沈黙が続くこと数秒。
 ほんの数秒の筈なのに、緊張からか喉に渇きを覚えた。
 自身の机に座る珀明は、表情一つ変えること無く、いつもの落ち着いた声音で奏に言った。


「そうか……」

「……『そうか』って…」


 放たれた言葉に、奏はズキリと心が軋むのを感じた。
 息の仕方を忘れてしまったように、上手く呼吸が出来ない。


(珀明さんは今、何と言った……?)


 聞き間違いであって欲しいと思う。
 理由を尋ねるわけでもなく、淡々と口にしたその言葉が……


「お前が軽々しく口にする言葉ではないだろう? なら、止めても無駄だ。離婚には応じる。実家に帰るなり、新しい相手のもとへ行けばいい」


“軽々しく口にする言葉”

“新しい相手”


 鋭利な刃物のように、珀明の言葉が胸に刺さる。
 
 心の何処かで自惚れていたのだ。
 珀明が自分を手離すことは無いだろうと……
 そして忘れていたのだ。

 この嘘は、相手が自分を想っていなければ成立しない嘘であることを。

 珀明が奏を引き留めてくれなければ、今更“嘘”だと告げることは出来ない―――

 ホロホロと涙が溢れてくる。
 頬を伝い落ちるその滴は、茶色い絨毯に小さな丸い模様を描く。


(自分が必要とされていないことが悲しい……。でも、珀明さんの気持ちが分かって良かった。遅かれ早かれ、珀明さんの気持ちを知ることになっていただろうから……)


 胸が痛い。
 こんなに胸がズキズキと痛む程、音も無く涙が溢れ出る程に、自分が珀明を好きなのだと気付かされる。


「フッ……泣く程嬉しいか」

「違いますっ! 私はっ―――!?」


 嬉しいわけがない。

 『私は嫌われていても珀明さんが好きです』

 そう続けたかったが、珀明が机の引き出しから取り出した紙を見て、奏は言葉を失った。


「あぁ、部屋を出る前にこの届けにサインして行け」


 机の上に広げられた一枚の紙と万年筆、印鑑。
 その紙は、互いが別の道を歩む為に役所へと届ける書類。その書類が受理された瞬間から、お互いが他人になれる紙。


 ―――離婚届


 初めて見る離婚届には、既に珀明の署名と押印、証人として同じく葉月とレイヴンの署名と押印がされている。


(そうよね……。必要無いと言うことは、“別れる”こと。前もって離婚届を準備する程、私は嫌われていたのね……


 その考えは、更に深く奏の胸の傷を抉った。

 震える手で万年筆を持ち、離婚届に記入していく。
 涙が離婚届に落ちない様に気を付けながら、最後に印を押す。
 手の震えで文字が少し乱れてしまったが、この程度なら問題無く受理されるだろう。

 珀明は奏が署名し終わるのを、黙って見ていた。
 書き間違い等が無いか確認し、珀明の方へ向けて離婚届を机の上に置いた。


「……問題無く書けたと思います。今日中に、屋敷を出て行きます……」


(早く荷物を纏めなくちゃ……)


 きっと今日中にも役所へ提出するだろう。いつまでもこの屋敷に、珀明の傍に居るわけにはいかない。
 荷物と言っても、奏はこの屋敷へ身一つで来たに等しい為、持って行く物は限り無く少ない。


(珀明さんに頂いた物は持って行けないから、葉月さんに頼んで処分なりして貰って……。オニキスは……、慣れない場所に連れて行くのは可哀想だから、このまま……。もし珀明さんが迷惑なら、連れて行こう。お世話になった使用人の人達に挨拶もして……)


 短い時間でやることは山積みだ。
 まさかエイプリルフールの嘘で珀明さんの本音を知ることが出来るとは思ってもいなかった。


「今まで傍に居て……、好きでいてごめんなさい。お世話になりました」


(本当はもっと一緒に居たい。ずっと、これから先も……)


 胸の中に溢れる、奏の本音。珀明の気持ちが離れた今、口にすることの叶わない言葉。
 
 珀明は一族の当主だから、一族間の関係はこれからも続いていくだろう。
 それでも、分家にとって当主は雲の上の人だ。正月の行事以外では簡単に会うことも出来ない。


(きっと、これが最後……)


 新たに溢れ出た涙の先に居る珀明の姿を、目に焼き付ける。


「今まで、有難うございました」


 助けてくれて

 護ってくれて

 居場所をくれて

 一時でも愛してくれて……


 “有難うございました”


 沢山の感謝を込めた言葉と共に、頭を下げた。
 下げていた頭を上げた瞬間、ボーン……っと一階廊下にある柱時計の音が響き渡った。

 それは、正午を告げる鐘の音。



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