『愛する者へ、小さな嘘を』(2)



「時間か……」


 やっと口を開いた珀明は、目を細めて自身の腕時計を見た。


(時間……?)


 何処かに出かけるのか、珀明は椅子から立ち上がる。


(私の言葉よりも、用事が大切なんですか……?)


 奏の言葉に相槌を打つことも、言葉を返すことも無い。
 まるで、聞く価値すら無いというかの様……
 早く出て行けと無言で言われた気がして、奏は出入口に向かって踵を返した。


「―――きゃっ!!」


 いや、正確には踵を返そうとした。しかし、右手首を捕まれたまま後ろに引っ張られ、バランスを崩して珀明の机に上半身が乗り上げてしまう。


「―――ぃたっ!」


 背中に回された珀明の腕がクッションになったが、それでも机に腰がぶつかり僅かな痛みをもたらす。


(一体何が……)


 一瞬の出来事に状況を理解することが遅れた。
 気が付けば珀明の胸に抱き込まれる体制。頬に手を添えられ、唇に暖かな熱が押し付けられる。
 押し付けられたそれは珀明の唇。


(どうして……?)


 唇の感触を味わう様に啄まれ、舌先で唇を割って差し込まれる舌。


「んっ……、ん…ぁ……」


 優しく舌を絡められ、クチュリ…と濡れた音が耳に届く。何度も角度を変えて口付けられ、上手く息継ぎが出来ず身体が熱を帯びてくる。


「はぁ、ふっ……んん、……っぁ」


(どうして、こんなキス……)


 優しい口付けは、奏は戸惑わせるばかりだ。まるで、まだ珀明の気持ちが奏にあると錯覚させるような、熱いキス。


「あっ……、ゃあっ……」


 銀色の糸を引きながら唇が離れ、今度は涙の跡に舌を這わせられる。
 キスが終わる頃には涙は止まっていたが、宥める様に舌先で涙を舐め取られる。


「あ……、ふっ、……んっ」


 擽ったさと恥ずかしさから珀明の胸板を押すが、キスによって力の抜けた手ではビクともしない。
 目尻を舐められ、幾度と無く顔中に優しいキスの雨を降らせる。

 嫌われてるのに、優しい愛撫に、もっとして欲しいと思ってしまう……
 その優しさにすがりたくなる自分が嫌で……


「や…ぁ、もう……ふっ、ぅっ、離して下さ……」

「それは無理だな。お前はあの日から私の物だ」

「なっ―――っ!?」


(『私の物』……?別れても、所有物扱いすると言うの? 私のことを嫌いなのに……。珀明さんの考えていることが分からない……)


「珀明さんは私が嫌いなのに、どうしてそんなこと……」

「……『嫌い』だと? 私がいつ、そんなことを言った」


 呆れた様に珀明が言った。


「だって、離婚届を準備していたじゃないですか!」


 気持ちが離れなければ、用意されることの無い紙。
 それを用意する程、私を嫌ってるんじゃないんですか?


「離婚してくれと先に言ったのはお前だろう」


 確かに、先に離婚を口にしたのは自分だ。


(でもそれは……)

「そ、そうですけど……。だって、今日は……」

「『エイプリルフールだから』か」


 奏の言葉を、珀明が続けた。
 奏は大きく目を見開いた。


「―――!?」


(まさか……)


「楽しめただろう?」


 薄く笑いながらも、奏を捉える、静かな怒りを秘めた黒い双眸。


「嘘……」

「お前の嘘に乗っただけだ。私が本気でお前を手放すとでも思ったのか?」


 つまり、嘘を逆手に取られていたと言うこと。
 唖然とする奏から身体を離し、机の上に置かれたままの離婚届を手に取り、ビリッと音を立てて二枚に引き裂いた。


「これは婚姻届と一緒に用意していたものだ。あの男を始末した後、お前に渡すつもりだった。嘘でも軽々しく“離婚”と口にするお前を驚かすつもりだったんだが、まさか本当に書くとはな……。だが、これは無効だ」


 何処か傷ついた様に口にした言葉に、奏の胸が傷んだ。
 自分が珀明の“離婚”と言う言葉に傷ついた様に、珀明も傷ついていたのだ。
 嘘でも言ってはいけない言葉。


「ごめんなさい……」


 奏は床に視線を落とした。


(何故自分はこんなにも幼いのだろう……。珀明さんは私を大切に思ってくれているのに……)


 罪悪感で身体を震わせる奏を、珀明は力強く抱き締めた。
 痛みすら感じる程、強く。


「いや、私もやりすぎた。正午を過ぎたからこの話は終わりだ。そろそろ食堂に行かなければ葉月が煩い」

「珀明さん……」


 いつもと同じ口調で言われ、自分を気遣ってくれているのがわかる。
 奏も珀明の背中に腕を回し「……はい」と小さな声で頷いた。


 少しずつでも、返していければいいと思う。

 珀明さんが私を想ってくれる気持ちを―――


 少しずつ……



*END*



◆おまけ◆
(※会話のみ)


「気になってたんですけど、何処かにお出掛けなさるんじゃなかったんですか?」

「……いや、何処にも行かないが。何故だ?」

「時間を気にしてらしたので……」


「あぁ、あれか。エイプリルフールは午前中に嘘を吐き、午後から嘘をばらすのがルールだからな。知らなかったか?」



*『愛する者へ、小さな嘘を』END*

いもこ.様に捧げます。
キリリク有難うございました。



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