『水族館』(1)



 珀明と結婚して五ヶ月―――

 この日、奏は初めて屋敷の外に珀明と一緒に出かけた。
 行き先は、屋敷から車で一時間程の所にある水族館だ。

 ペンギンの写真集を食い入るように眺めていた奏に、珀明が水族館へ会社が休みの日に連れて行ってくれると約束してくれていた。


「本物のペンギンって、とても可愛いんですね」


 ガラスの壁の向こうで動き回るペンギンは可愛くて、眺めていても飽きることはない。

 親の足元に身を隠す赤ちゃんペンギン。
 水に入ることを戸惑っているペンギン。

 それは図鑑や映像の中とは全く違っていて、その愛らしい姿を眺めていると胸が温かくなる。


「今日は連れて来て下さって、有難うございます」


 奏は水槽から視線を外し、傍らに立つ珀明を見上げた。
 休日の為、今日の珀明も私服姿だ。
 髪も下ろされ、服は黒いジャケットにストライプ柄のワイシャツ、そして黒のパンツを穿いている。

 奏の言葉に、珀明はチラリと奏を見て、すぐに水槽に視線を戻した。


「……礼を言われる程のことではない」


 相変わらず、まるで興味がないというかのような淡々とした口調。
 何も知らなければ、ただの冷たくて無愛想な人だと思われてしまうだろう。
 でも本当は、珀明は不器用なだけでとても優しい。

 当主である珀明は、両親を亡くしてから前当主に育てられた。
 時期当主候補として教育された珀明の回りには、彼を利用しようとする大人達が群がった。
 ある者は彼の手にする権力を、ある者は彼の物になる財産を狙って。
 そんな中で、次第に珀明は感情を表に出さなくなり、人を信用しなくなって行った。

 ペンギンを見た奏達は、イルカショーをしているステージへ向かう。


「……あの、珀明さん。どうして他にお客様がいらっしゃらないんでしょう?」


 ガランとしたショー会場を見渡しながら、珀明に問う。
 これは水族館に入ってからずっと思っていたことだ。
 休日だと言うのに、館内に職員以外に人の姿が見当たらない。


(休日が休館日とは考え難いし……)


 奏の問い掛けに、珀明は足を止めた。


「…………」

「珀明さん?」


(まさか……)


 口を開かない珀明に、奏の中である答えが生まれる。


「まさか、貸し切りになさったんですか?」


 倉橋一族は総じて裕福だが、本家は別格だ。
 静かな場所を好む珀明なら、水族館を一日貸し切りにしても不思議ではない。


「いや、貸し切りにはしていない……」


 珀明の言葉に、ホッと胸を撫で下ろす。


(そうよね。いくら珀明さんでも、貸し切りなんてする筈ないわよね。じゃぁ、どうしてお客さんがいないのかしら……)


 考え込む奏の耳に、珀明の口からとんでもない言葉が届いた。


「……が、ここを買い取った」

「は……?」


(買い取ったって……)


「買収なさったってことですか!? どうして……」


 倉橋は手広く事業を行っている。証券会社や演奏ホール、他にも多くの事業を手掛け、子会社もある。
 珀明が水族館の事業に興味があるとは到底思えない。


「お前も来たいと言っていたし、来る度に貸し切りにするのも面倒だろう?」


 だったら買い取った方が早いと、珀明は続けた。


(私の為に、何億ものお金を動かしたってことですか? そんこと、私は望んでいないのに……)


「私は、貸し切りじゃなくて構わないんです。ただ、水族館に来られれば何だって良かったんです。
たまにしか来ないのに何億も使うだなんて……」


(私は珀明さんと来られただけで、充分なんです)


「大した額じゃない」


(大した額じゃない……)


 確かに、珀明にとっては大した額ではないのかもしれない。
 しかし、そんなことが問題なのではない。
 わざわざ買い取ったことが問題なのだ。
 こんな時、珀明と住む世界が違うのだと思い知らされる。


「どうした?」


 俯いて黙り込んだ奏の頬に、珀明の指が触れる。


「嫌っ!」

「―――っ!」


 気付けば思わず、珀明の指を振り払っていた。


「あっ……!」


 振り払うつもりなんてなかった。
 しかし、簡単に億単位のお金を動かす珀明に奏は納得出来ずにいた。


「瑪瑙……」


 珀明がまた、奏の名を呼ぶ。
 その声も、いつもと変わらなくて……
 その声に、珀明の顔を見るのが返って怖くなる。


「ごめんなさい……」


 奏は気まずくて、衝動的にその場から逃げ出した。

 逃げ出しても、意味はないと分かっていたのに―――



 走って、走って、辿り着いた先は―――


「ここ、何……?」


 暗い暗い、深海魚のコーナーだった。


 中層の深海魚を集めた水槽の中には、太陽の微かな光が届く為に発達した目を持つ魚が泳いでいた。
 深海魚は、眩しくて太陽の光の下では生きることができない。


(それでも……、この魚達は僅かな光が届くために見えない太陽を探してる)


「太陽の光なんて届かなければ良かったのに……」


(そうすれば、真っ暗な自分の住む世界以外知らなくて済むのに……)



『お前も来たいと言っていたし、来る度に貸し切りにするのも面倒だろう?』


『大した額じゃない』


(知らない世界を知ってしまえば、ただ途方に暮れるだけ……)


「倉橋様のお連れ様ですか?」

「え……?」


 入口から声をかけられ、奏は声のした方に視線を向けた。
 そこには、水色の作業服を着た五十代くらいの男性がバケツを手に立っていた。


(飼育員、さん……?)


「すみません。倉橋様とのやり取りをモニターで見てしまいまして……。追いかけてきたんです」


 飼育員さんのつけているプレートには、館長 日下部(くさかべ)と書かれていた。


「モニターで?」


(入館から見られていたなんて……)


 恥ずかしさから顔を俯けてしまう。


「すみません警護も兼ねていますから。この館について、倉橋様からお聞きになられましたか?」


(珀明さんは、この人から館を買収した)


「はい。毎回貸し切りにするのは面倒だから買い取った、と……」

「そうですか……、倉橋様はそのように」


 館長はバケツを足下に置き、指を顎に当てて考えるそぶりを見せた。


「珀明さんが、無理に買収を持ち掛けたのではないですか?」


 珀明は奏の為にここを買い取ったと言っていた。


(買収の為に、もしも酷いことをしていたら……)


「いいえ。無理やり買収などされていません。寧ろ、倉橋様には感謝しているのですよ」

「感謝を……?」


 館長は「ええ……」と頷き、深海魚の水槽を愛おしむように眺めた。


「この館も、大分昔からありましてね。年々来館者も減り、赤字続きでスポンサーも手を引くようになっていたのです」


(赤字って……。外観も内装も、こんなに綺麗なのに……)


「スポンサーも見つからず、閉館を考えていた時に買い取りを申し出て下さったのが倉橋様なのです」

「珀明さんが……?」

「はい。倉橋様のお母様が生前、当館を気に入って下さっていたようで、倉橋様はこの館を買い取りたいと仰って下さいました。館の名前や働いていた職員、動物もそのままでよいと。今は内装工事中ですが、来月にはリニューアルオープンする予定になっております」


 その口ぶりから、心から珀明に感謝していることを伺い知ることができた。


(無理矢理買収したんじゃなかった・・・・・・。また私、珀明さんを誤解していた)


「私……」


(珀明さんに何てことを……)


「倉橋様の奥様がペンギンがお好きとのことで、現在は十種類のペンギンを飼育しているのですよ」


 元々四種類しか飼育していなかったペンギンを、珀明に増やすように言われたのだと館長は言った。


「私の為……」


(私がペンギンを好きだから・・・…)


 暫く話した後、館長は他の職員の人に呼ばれて行ってしまった。


「私、珀明さんの何を見てたの……?」


 珀明には言葉が足りない時があることを知っていたのに。
 奏が喜ぶことを自分からは口にしない人だと知っていたのに。


「ふ…っ……うっ」


 パタパタと涙が溢れてくる。
 暗い深海魚のフロアに、奏の鳴咽だけが響く。


(私の世界は、なんて狭いのだろう。光を知らないこの魚達と同じ……)



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