「穏やかな日」(1)



 もうすぐ珀明と奏にとって、共に過ごす二度目の夏がやってくる。

 ニ度目の夏――、それはニ人が結婚して一年の月日が経とうとしていると言うこと。

 一年前のあの日、あんな冷徹な男に嫁ぐのかと、これからの日々を考えると怖くて仕方がなかった。
 それが今では珀明の居ない生活は考えられない程、珀明は奏にとって大切な存在となっていた。
 
 もうじき梅雨を迎える倉橋本家別館、奏の朝は小さな電子音から始まる。


「はい奏様、お口から出して下さい」


 小さな電子音が鳴り終わると、奏は口にくわえていた体温計をメイドに差し出した。


「平熱ですね、すぐお着替えをご用意致します」


 普通の体温計よりも細かく表示される数字をメモし、着替えを準備してからメイドは退出して行く。
 
 この屋敷に来てから毎日行われる行為。一週間に一度は葉月による検診もある。

 体温を計るソレは普通の体温計ではなく婦人体温計と呼ばれる物で、毎日計ることによって妊娠しやすい時期を知ることが出来るのだ。


 メイドに出して貰った洋服に着替え、食堂へと向かう。
 食堂の扉を少し開くと、中から賑やかな声が聞こえて来る。
 薄く開かれた扉の隙間から見えるのは、十人掛けのテーブルの中央に座る珀明と、その斜め前に座る一人の女性。

 コンコルドで一纏めにされた艶やかな黒い髪。手入れの行き届いた白い肌。意志の強い瞳と整った容姿。刺繍の施された黒のワンピースと白いカーディガンは、スラリとした体型に良く似合っていた。

 女性の名前は古川沙羅(ふるかわ さら)。
 珀明とレイヴンの学生時代からの数少ない友人で、現在は“恋月姫(れんげつき)”と言うファッションブランドのモデルをしている。
 奏の部屋のクローゼットの洋服やアクセサリーの殆んどが“恋月姫”の物だ。


「だからさ、撮影場所に別館の庭園貸してよ」

「駄目だ。以前本館の庭園を貸しただろう。あれきりの約束だった筈だ」

「ケチ。あれは日本庭園じゃん。今回はこっちが良いんだよ。心の狭い男は嫌われんだぜ?」

「お前に嫌われるぐらい痛くも痒くも無い。それよりも何故ここで当たり前の様に朝食を食べている?」

「そりゃ誘われたからに決まってんだろ。屋敷の主とは違って葉月さんは優しいよな。『朝食がお済みで無いのでしたらどうぞ』だって。本当は食べて来たんだけど、ここの料理美味しいからご馳走になることにした」

「……精々商売道具のその体型が崩れない様に気を付けることだな」

「テメェ……、やかましいわ!」


(ふふっ……、今朝も賑やかね)


 聞こえて来る会話に、奏はクスリと笑った。友人にしか引き出せない珀明の新たな一面。
 
 珀明がポンポンと軽口を叩けることを、奏は初めて知った。レイヴンとの言い合いとも違う、何処か会話を楽しんでいる様に聞こえる。
 今では一族内で“冷酷当主”“死神”と恐れられる彼にも、友人と共に過ごした学生時代があったと言うことを改めて気付かせてくれる。
 そしてその友人等は、この屋敷に昔から働いてくれている人々と同じ様に、奏の知らない本当の珀明を知っているのだ。

 微笑みを浮かべたまま、薄く開かれたままの扉を少し強めにノックして食堂へと入る。


「おはようございます。沙羅さん、珀明さん」

「あぁ」

「おはよう、姫」


 にこやかに挨拶を返す沙羅からは、先程まで流れていた険悪な空気は微塵も感じられない。
 奏は珀明の隣の椅子へと腰を落とした。


「おい珀明、朝の挨拶ぐらいちゃんとしろよ。社会人の基本っつーか、常識だろ。昔は礼儀正しかったのにさ〜」


 珀明の挨拶が気に入らない沙羅は、目の前で食後の珈琲を飲んでいる珀明を睨み付けた。


「黙れ」

「ハッ! 黙るわけねーだろ」

「帰れ」

「帰るに決まってんだろ。午後になったらな! おらっ、珀明はさっさと仕事に行けよ。もう時間だろーが」


「………っ」


 奏が会話に口を挟む間も無く二人の会話が終わり、出勤時間が迫っていた珀明は無言で席を立った。

 その瞬間、沙羅が溜め息交じりにとどめを刺す。


「はぁ……。いい年した大人がごちそうさまも言えないとは……」


 ビシリと一気に部屋の空気が張り詰め、珀明は眉間に深く皺を刻み沙羅を睨み付けた。
 口を挟むことが出来ず、奏はハラハラしながら二人を見守ることしか出来ない。
 
 部屋の隅で控えていた葉月を伴って食堂を出る時、珀明は椅子に座る奏に「行ってくる」と沙羅には聞こえない小さな声をかけて出て行った。
 たったそれだけのことだったが、珀明が声をかけてくれたことが嬉しくて奏は口元を綻ばせた。


「夏だからかな。朝から暑いな〜」

「さ、沙羅さん……」


 一定の温度に保たれている食堂内が暑いはずはない。
 先程珀明が奏に小声で囁いた声が聞こえていたのだろう。

 手で扇ぐ仕草をする沙羅に、奏は恥ずかしさから顔を赤くした。


「しっかし、あの男が“行ってくる”とか言う様になるなんてな〜。あたしも年取るわけだよ。こりゃ“ごちそうさま”も近いね。あ、すみません。珈琲のお代わりお願いします」


 隅に控えていた給仕を呼び、珈琲のお代わりを注いで貰っている沙羅の口調は珀明を馬鹿にしているようだが、その顔はとても嬉しそうだ。


(沙羅さん、珀明さんのこと心から心配して下さってるんだわ……)


 奏は珀明と再会するまでのことは知らない。覚えているのは優しい言葉と穏やかな笑顔。
 再会した頃、珀明から向けられたのは冷たい言葉と射るような鋭い眼差しだった。当時の面影は一つも残っていない。

 珀明は両親を喪ってから、自分を利用しようとする者たちから自身を守る為に冷酷にならざる得なかった。
 珀明が立っているのは、いつ足元が崩れてしまうかわからない薄い氷の上。限られた時間の中で、彼は崩れることのない厚い氷を作り上げた。


 本来の自分を代償にして―――



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