『婚約者よりも』



 ――日曜日

 クリーム色のドレスに身を包んだ優実は、ホテルのレストランに居た。
 高級レストランというだけあって、洗練された雰囲気が漂う店内。
 中央に置かれたステージでは、バイオリンとピアノの演奏が行われている。

「どうかされましたか? 食事がお口に合いませんか?」

「いいえ、美味しいです。お誘い頂き、有難うございます」

 目の前に座る相手に指摘され、ぼーっと夜景を見ていた優実は視線を戻し返事をした。
 ブランドもののスーツに身を包み、整った顔立ちをしている彼の名前は都築 帳(つづき とばり)。二十六歳。
 優実の父が経営する会社の取引先であり、都築グループ時期総帥。
 現在はグループ内の企業、大手電気メーカー副社長。

 そして、優実の婚約者だ。

「いいえ、私が勝手にしたことですから。お互いに忙しい身ですし、結婚までに少しでも親睦を深められればと思いまして」

 そう言って、帳はにっこりと笑った。
 普通の女性から見れば、帳はルックスよし、将来性よし、家柄・年収よしの理想の男だが、優実は帳が嫌いだった。

 会うのはまだ数えられる程で、帳のことはあまり知らない。
 そもそも、相手を好きだろうと嫌いだろうと、優実は高等部を卒業したら帳と結婚させられる。
 それは帳も同じだが、優実はわざわざ時間を作ってまで親睦を深めようとは思わない。

「そうですか」

 さして興味もなかったので、優実はそっけなく返事をして食事を続けた。

(何が『お互いに忙しい身』、よ)

 帳は副社長を務めているが、会社にはあまり出勤せずに遊び歩いているらしい。
 仕事もせずに高額な給料を貰う神経も理解出来ないし、社長の息子だという立場に甘んじていることも許せない。
 帳よりも、例え不細工だろうが怪しかろうがファントムの方がずっと良い。

 仕事に誠実で、優しい人。



***



 ――火曜日


 いつものように第ニ化学室で化学部の活動が行われる。
 今日は竹串に刺したマシュマロを液体窒素に入れる実験。

 液体窒素から取り出したマシュマロを指で突いた感じは冷たく堅い。
 口に入れ、噛んでみるとカシュッと音がして弾けた。

(凍らせたマシュマロって、結構美味しいかも)

「今度やる時はチョコレート入れようよ。絶対美味しいって」

 竹串にマシュマロを黙々と刺していく先生に、液体窒素にマシュマロを浸けながら提案する。

 ……が、

「チョコレートは舌が凍傷になるから駄目です。冷凍庫保存で我慢しなさい」

 と、ばっさりと提案を切られた。

(瞬殺か。でも、凍傷は困るもんね)

 納得して、マシュマロを口に運ぶ。 しかし優実が黙ったのを気にしたのか、ファントムが口を開いた。

「次はジュース系にしましょう。かき氷みたいで美味しいですよ」

「うんっ」

 ファントムのそんなところが好きだ。気遣い一つで、もっと好きになる。

(でも、私には帳さんが居る。婚約者が居るのに他に好きな人が居るのは、いけないことなのかな? 想うだけでも、それは罪?)

「ねぇ先生、婚約者が居るのに他の人を好きになるって……ありかな?」

 マシュマロをかじりながら、ファントムに問う。

「最近の君は話題が本当に突然ですね。婚約者の人以外に好きな人が出来たんですか?」

 ファントムの言葉に、小さく頷く。

(やっぱり、いけないこと……だよね?)

「別に悪いことではないでしょう。好きになったのなら」

 そう口にするファントムは、どこか寂しげだった。
 勿論仮面越しだから分からないが、そんな気がした。

(先生も過去に好きになった人と……、何かあったのかな?)

「ただ……」

 ファントムが言葉を続けようとした時、スピーカーから放送が流れた。

『ファントム先生、お客様がお見えです。至急第三化学教官室まで起こし下さい』

(先生に、お客様?)

「誰でしょうか。ちょっと失礼します。六時になって戻らなかったら、戸締まりをして鍵を教官室のドアノブにかけて帰って下さい」

「は〜い」

 ファントムを見送り、残りのマシュマロを液体窒素に浸けて食べる。

(先生のお客さんって誰だろ? 実験道具の業者さんとかかな。まさか……、呪術仲間とか?)

 それにしても、さっきファントムは何を言いかけていたのだろうか。
 学園内でも、婚約者の居る生徒は珍しくない。
 帳の両親も、お互いに恋人が居ると聞く。
 帳も初めて会った時に言っていた。

『私はこの先、優実さんに好きな人がいらしても構いませんよ』

 その言葉に、当時幼かった優実は激怒した。
 今でも平凡な顔立ちをしている優実に対して、当時高校生だった彼はその頃から美形だった。
 だから言外に「どうせ結ばれないだろう」と言われた気がした。

『私、貴方なんて大嫌いです』

 その時から、男は性格だと思うようになった。

「嫌なこと思い出しちゃったな」

(憂鬱……。先生、まだかな。

 ふと腕時計を見る。

「もう六時半?」

 六時に帰れと言われていたのに、大幅に過ぎている。

(先生帰って来なかったな……。もう帰ったのかもしれない。私も帰らなきゃ……)

 液体窒素を片付け、戸締まりをして第二化学室を出た。
 鍵を持って、職員棟に向かう。殆どの教員は既に帰ったのか、職員棟は静まりかえっていた。
 職員棟には、各職員毎に個室が与えられる。 大学で言う個人研究室のようなものだ。
 化学教員のフロアは、四階。手前から三つ目の扉が、ファントムの個室。
 廊下を歩いていると前方の個室の扉が開き、中からスーツ姿の男性が出てきた。
 手にはアタッシュケースを持っている。

(教員の人じゃ……、ないよね。それにあの部屋って、先生の……)

 男性が出て来たのは、ファントムの個室だった。

(あの人が……、お客様?)

 男性が横を通り過ぎる時、彼は何故か優実に会釈をした。
 優実もつられて会釈をする。

(変なの。学園の生徒に会釈なんて……)

 首を傾げながら、ファントムの個室の扉の前に立つ。

(お客様が帰ったってことは、先生まだ居るはずだよね? 鍵も直接渡した方が良いし、さっきの話も気になるし)

 優実は扉をノックをし、返事を待ってドアノブに手をかけた。
 ファントムの個室は、入ってすぐに応接用のソファーとテーブル、その奧に仕切りの役割も兼ねる本棚、教材の置かれた棚や机がある。
 何度か来たことがあるけれど、几帳面な性格なのかいつも綺麗に片付けられている。

「どうした、何か言い忘れたことがあるのか? 朽名(くちな)」

(―――え?)

 ドアを開け、中に入った途端、本棚の向こうから問われる。

(クチナって、さっきの人?)

 優実は無言でゆっくりと、ファントムに近づいて行く。
 今のファントムの声は、いつもの仮面越しのこもった声ではなかった。むしろ、優実にはとても聞き慣れた声。

「朽名?」

 返事が無いことを訝しんだのか、机のパソコンに向かっていたファントムが後ろを振り返った。
 優実の顔を見た瞬間、その瞳は驚きに見開かれる。

「さ…がら、……さん」

 絞り出すように、優実の名を呼ぶ。
 その顔は、優実のよく見知った人のもの。そう、日曜日に会ったばかり。
 机の隅に置かれた仮面。
 彼が着ている白衣と服は、ファントムの着ていた物と同じ。
 そして何より、驚いたその顔が揺るぎない証拠。

 ファントムの机の椅子に座っていたのは、優実の婚約者―――≪都築 帳≫

 その人だった――



*END*



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