『化学室へようこそ』
新入生で一杯の講堂。舞台の側にある職員席で、ファントムは一番目立っていた。公の場で、スーツに仮面。
優実をはじめ新入生達は最初、何かショーでもあるのかと思っていた。しかしそれは間違いで、一教師として彼は他の教師達と同じように紹介された。
自己紹介では「今年は一年生のA〜F組、SP組の化学を担当します。名前はファントムです」と、こもった声で彼は自己紹介した。
呆気にとられる新入生を余所に、進行役の聖徒会役員と教師達から拍手が起こり、新入生達も状況を飲み込めないままつられて拍手を贈った。
入学式から数日後、中等部時代からの友人である雪都(ゆきと)から、化学室に一緒に来てくれるよう相談を受けた。
雪都は中等部まで化学部に所属しており、一人では行きにくいとのこと。
こうして優実は、放課後に第二化学室へ行くことになった。
「中等部時代の化学部の先輩と来ればよかったんじゃないの?」
化学室の前に到着し、ふと思い浮かんだことを雪都に聞く。
雪都は言いづらそうに一瞬黙り、口を開いた。
「いや、それが……先輩達入ってないらしくて」
中等部の化学部は、まめに活動していて正に化学バカの集団だった。
それが高等部では誰一人化学部に入部していないとは、心境の変化か何かだろうか。
高等部には数多くの部活動がある為、他に興味が移っても仕方のないことだとも思う。
「大丈夫よ。きっと新入生とか他学年の生徒も居るわよ」
雪都を励まし、優実は化学室の扉を開けた。
「「え……?」」
見事に雪都と声がハモり、優実達は呆然と室内を見回した。
生徒が……誰も居ない。
そして前方の実験テーブルでは、誰かが書類を広げている。
「ん?」
声に気付き、振り返った姿を見て優実達は固まった。
目の前に居るのは、化学教師・ファントムだったからだ。
表情が全くわからない為か、間近でみるとかなり怖い。
恐怖から声を出せない優実達に、ファントムはクリップボードに挟んだ一枚の紙とペンを差し出した。
「入部希望の新入生でよかったですか? これ入部届け」
震える手で、何とかクリップボードを受け取る。
隣に立つ雪都は、微動だにしない。
「ゆ、雪都?」
声をかけた瞬間、弾かれたように「優実、悪い、後は任せた」と叫び、雪都はその場から逃げ出した。
(――え? 悪いって……、後は任せたって……。えぇ〜〜!?)
雪都が居なくなり、嫌な沈黙が流れる。しかし、黙っていても意味はない。
「あ……、あのっ……」
「私も辞退します」そう言おうとするが、声が出ない。
(ただの付き添いの筈なのに、何故こんな事態に……)
「で? 彼は行ってしまいましたが、君は入部しますか?」
疑問系で聞いておきながら、有無を許さない気迫がファントムから漂ってくる。
今更、ノーとは言えず、優実は首を縦に振ることで肯定した。
「では、入部届けにサインを」
「……はい」
言われるまま、入部届けを書く。
書き上げた入部届けを渡すと、今度は書類を整理していた実験机の椅子に座るよう指示される。
(もう帰りたい。それか他の部員の人、誰でも良いから早く来て……)
ファントムも椅子に座り、活動について説明し始めた。
「相楽優実さんですね。化学部の活動日は火、水、木曜日の放課後です」
(週三なら、来れないことはないかな……)
「主に化学実験を行いますが、理科の範囲内でしたら何でも取り入れます」
(化学実験は授業でやるから、もっと手を広げるってことか。活動の幅が広がるのって、良いことだよね)
「活動時間は二時間程度ですが、部員は相良さんだけなのでそこは君に合わせます」
(二時間なら、楽かも。時間も合わせてもらえるなら、凄く助かる。部員も私一人だし……)
(……ん? 部員が私一人?)
「ちょっ、部員が私一人って何でですか!? せめて幽霊部員とか!」
幽霊部員なら居てもどの道部活に出ないと思うのだが、軽くパニックに陥っている優実は気付かない。
「いや、君だけ。何故か私が顧問についた途端に解散してしまってね。新入生や入部希望者もさっきの彼……ユキト君と同じように逃げてしまうから」
仮面を被った教師が顧問になったら、恐怖から解散しても仕方ないのでは……と口に出さず心の中で突っ込む。
(そりゃ新入生だって逃げるでしょ。私だって逃げたい……)
「そう、ですか……」
(先生にとって私は唯一の収穫物なのですね……)
ファントムと顔を合わせるのは週三回。授業は受け持ちのクラスではないので、今年は接点は無い。
優実は心で溜息をつき、これからの三年間を無事に乗り切れるよう祈った。
*END*
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