『幸福未来計画論』Sideレイヴン
（「想い描いていた女性」続編）
四人で食事に出掛けてから数日後。終業後に珀明は珍しくレイヴンと共にバーに来ていた。
大通から少し外れたビルの地下にその店『abisso』はある。『abisso』はイタリア語で、『深海』を意味する。
ビルの表には看板等は一切無く、階段を下りた場所に店の入り口がある為、知る者も少ない。
店内は薄暗く、店の中央に熱帯魚の入った大きな水槽が置かれている。
青白い光に照らされた水槽の中を游ぐ熱帯魚達の姿はとても幻想的だ。
「で？ 珀明から呑みに行こうなんて珍しいじゃないですか。俺に何か聞きたいことがあるんでしょう？」
カウンターに並んで座り、酒を傾けること三十分。何か言いたそうな珀明の言葉を待っていたが、いい加減痺れを切らして此方から話を振ってやる。
数日前から……、正しくは凌に奏を紹介してから珀明はレイヴンを物言いた気に見ている。
仕事の指示をいつものように行っていることを思うと、きっとプライベートの話なのだろう。
（大方想像はつきますけどね……）
つまみのアーモンドを口に運ぶでも無く指で弄っていた珀明は、何かを決意するように大きく息を吐いた。
「敷地内に家を建ててしまえば、完全に家に縛られることになる。お前は私を恨むか？」
「恨む必要なんて無いだろ」
予想していた問いに、きっぱりと答える。即答されるとは思わなかったのか、珀明が目を見張った。
執事の家に産まれて来たのは自分だ。幼い頃から執事になる為に躾られて来た。昔はそれが嫌で、逃げ出した回数も片手の指だけでは足りない。
高等部を卒業する前に珀明の両親が事故で亡くなり、大学を卒業して直ぐに当主が亡くなった。
在学中から会社を任されていた珀明は当主襲名と同時に代表取締役に就任し、レイヴンも医学部を卒業するまで会社に通い、卒業後は執事見習いになること無く就職した。
新当主として一族を束ね、社長として社員を守らなければならない重圧。
幼い頃から当主候補として教育を受けて来たが、導いてくれる者も味方も無く、いつ何者かに足元を掬われるか分からない状況は珀明を精神的に追い詰めていった。
だからこそレイヴンは執事見習いとして屋敷で珀明を支えるのでは無く、会社で珀明の一番近い場所で支える道を選んだ。
珀明に余裕が見えるようになれば、会社を辞めるつもりだった。
しかし、いつしか秘書という仕事に遣り甲斐を感じ、ズルズルと室長の位にまで就いてしまった。
（そのお陰で凌と出会えたんですけどね）
「俺にも考えがある。執事になりたく無い訳じゃないんだ。嫌だったらとっくに投げ出してるか珀明に頼んでる」
俺の性格を知ってるだろうと笑って言えば、珀明は納得出来ないという顏をしながらもそうだったなと小さく呟いた。
「しかし、お前の口から執事になりたく無い訳ではないと聞かされるとはな……」
「当然だろう、珀明には俺の“主人”では無く“親友”でいて欲しかったんだから」
まさかそんな事を言われるとは思っていなかったのだろう、珀明が息を呑んだ。
「そんなに驚かれると傷付くだろ。まぁ、俺が珀明の親友でいたかっただけなんだけど」
主人として仕えるのでは無く、“親友”として珀明を支えたかった。執事が主人を守ることは義務だが、親友はそうでは無い。
一族や使用人たちを信じきれない珀明に、使用人としてでは無く“親友”としてなら信じて貰えると思ったのだ。
しかし、あの日から数年の月日が経ち、珀明は一族から認められる当主となった。もう“親友”は必要無いだろう。
（俺にも凌という大切な者が出来た。そろそろ潮時なのかもしれませんね……）
いつまでも居心地のいい親友の位置に居ることは出来ない。
使用人になれば、以前のように珀明に軽口を言うことも、こうして呑みに行くことも出来なくなる。
（寂しくなるな……）
心の中で呟いた言葉に、レイヴンは思わず口元を押さえた。
（今、俺は何て言った？）
寂しい？ それが本来あるべき自分の姿なのに。今の方が異常なのに。寂しいと思ってしまう。
（いつだって覚悟は出来ていたはずだ。なのに……、なのにどうして……）
動揺するレイヴンに、珀明は不愉快そうに眉を寄せた。
「……私はお前を一度だって使用人として見たことは無い。“使用人”のお前など必要無い。お前には“親友”として執事になって貰う」
「―――っ!!」
予想外の言葉だった。珀明が“親友”としての自分を欲してくれていたとは思わなかった。
（どうして珀明は俺を喜ばすようなことを無意識に言ってくれるんだろうね）
その言葉で、どれだけ救われた気持ちになるか珀明には分からないだろう。
「『なって貰う』って、俺に拒否権は無いのか？」
「無いな」
「相変わらずの傲慢さだな。いいよ、“親友”で“執事”。楽しそうじゃないか」
即答されレイヴンは苦笑した。
葉月に知られれば二人ともけじめが無いと叱責されるだろう。
「一緒に叱られて下さいね」
誰に、とは口にするまでも無いだろう。
「ふっ……。お前を助けるのも私の仕事だからな。一緒に叱られてやる」
「それはそれは。有難いお言葉をどうも」
ふざけた言葉を返すが、珀明は気に止めた様子も無くグラスを口に運んでいる。
その顔からは先程まであった不安の色は無い。
「そういえば、お前の考えとやらは何だったんだ？」
思い出したように言う珀明にレイヴンは肩を竦めた。
「心に余裕が出て来たらそれかよ」
自分の中の問題が解決したらそれかと呆れたように笑い、レイヴンはグラスに手を伸ばした。
指先でグラスの脚を持ち、遊ぶようにくるりと回す。
揺れる琥珀色の液体を見つめままま、レイヴンは口を開いた。
「珀明……、俺が執事になる時は凌に…如月に室長になって貰おうと思う」
「如月を？ 私はてっきり一緒に退職するものだと思っていたんだが」
他の社員達と同様に凌にも苦手意識を持たれていることは珀明も自覚している。
「珀明を残して行くことが心配なんだ。仕事はともかく、他の社員よりも凌の方が安心出来る。珀明もそうだろう？」
秘書室の部下達を信用していないわけではない。だが、その中でも最も信頼の足る者に後を任せたい。
「いつ敵になるか分からない相手よりも、決して裏切らない者を傍に置くべきだと？ 昇進とは言え如月が受け入れるとは到底思え無いが……」
顔を蒼白にし、無理だと首を横に振る凌の姿が目に浮かぶ…と、珀明は薄く笑った。その姿はレイヴンにも容易に想像出来た。
「だから正式な書面で室長になって貰うんだよ。辞令を出して」
辞令とは会社の意向を伝える為の命令文書だ。余程の理由が無い限り、断ることは出来ない。
「鬼か貴様。誰が判を押すと思ってるんだ。要らん恨みを買うつもりは無い」
「心配しなくても、少しずつ俺の仕事を気づかれないように任せてるし、俺が辞めるのは最低でもあと五年は先だよ。親父も引退にはまだ早いし、俺も仕事を覚え直さなきゃいけないからな」
五年という月日は、きっと長いようで短い。レイヴンにとっては、心に区切りを付ける期間でもあり、新たな一歩を踏み出す準備期間でもある。
「如月も大変だな。五年後、彼女がお前と同じように私に臆さず意見出来るようになるのかが楽しみだ」
ならないと言う自信があるのだろう、珀明は面白そうにクッと喉の奥で笑った。
「期待してろよ」
恐らく凌は、自分より有能な秘書になる…そんな予感がレイヴンの中にはあった。
会社の為と考えれば、いずれ勇気を持って珀明に意見出来るようになるだろう。
（その時、珀明がどんな反応をするか楽しみだ）
黒い笑みを浮かべ、レイヴンはグラスの中身を煽った。
それから数年後、珀明は第二のレイヴン・凌に毎日小言を言われることとなるのだが、それはまた別の話―――
＊END＊
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