『七夕』(七夕企画)



 ―――七夕

 帰宅した珀明は着替えを終えて食堂に向かう途中、ニ階の廊下に置かれたソファに座って窓の外を見ている奏に目を止めた。

「何をしている」

 ぼぅ…っと外を見ていた奏が弾かれたように珀明の方へ顔を向けた。

「空を……。七夕だから、星が見えないか見ていたんです」

「星を? 明日も雨だ。見ることは不可能だろう」

 奏の側まで歩み寄り、珀明は同じように窓の外を見上げた。
 空は夕方から厚い雲に覆われている。

「それに、星は今日で無くとも夏の間中見えると思うが」

「そうですけど……。今夜見ることに意味があるんです」

(『今夜見ることに意味がある』、か。そう言えば、今日は七夕だったな。瑪瑙も天の川を見たかったのか)

 織姫は琴座のベガ。
 彦星は鷲座のアルタイル。
 白鳥座のベネブと共に「夏の大三角形」を形成する。
 それらは夏の間中、見ることの出来る星々だ。

「だからと言って、いつまでも見えない星を探していても仕方が無いだろう」

 奏はその言葉に頷きながらも、余程星を見たかったのか表情は曇ったままだ。

「どうした?」

「私、七夕に星を見たことないんです。だから毎年、七夕を楽しみにしていたんです」

 七月上旬はまだ梅雨の時期。七月七日の夜が晴れることは稀だ。
 だからこそ、奏は幼い頃から七夕を楽しみにしていた。

「今は梅雨だから仕方ないって分かっているんです。でも、幼い頃はこの雨は天帝が織姫と彦星の邪魔をして降らせているのだと思っていました」

 「だから七夕の日の雨は嫌いなんです」と奏は言葉を続けた。

 晴れた夜空で輝く天の川を見ることで、織姫と彦星が年に一度の逢瀬を楽しんでいるのだと安心したかったのだろう。
 珀明からしてみれば、天帝の怒りを買ったのは自業自得というもの。自分の役割を果たさず、遊びほうけていたのだから。
 奏の言葉に、珀明は苦笑した。

「天帝が雨を降らせているとは、お前らしい発想だな」

「子どもっぽい考えだって、分かっています」

 奏は拗ねたようにまた窓の外へ顔を向けた。
 その横顔はほんのりと赤く色付いている。

(恥じらっているのか。可愛いものだ)

 珀明もまた、同じように窓の外を見上げて呟いた。

「『この夕へ 降りくる雨は彦星の 早や漕ぐ舟の 櫂(かい)の散りかも』、か」

「何かの歌、ですか?」

 珀明がふと思い出した歌を詠めば、聞き慣れない言葉に奏は不思議そうな顔をした。

「万葉集だ。七夕を詠んだ歌で、意味は『この宵に降る雨は、彦星が急いで漕いでいる舟の櫂から飛び散った雫なのだろうか』と言ったところだな」

 七夕の夜に降る雨は、彦星が織姫に逢う為に、急いで船を漕いだ時に櫂から飛び散った飛沫なのだと詠ったもの。
 歌の意味を聞いた奏は、顔を綻ばせた。

「織姫の為に、彦星の漕いだ櫂の雫……。素敵な歌ですね」

 万葉集は日本最古の歌集だ。
 そんな昔から七夕は知られ、同じように七夕の夜に降る雨を例えた人が居たことが奏には嬉しかった。
 ようは考え方次第だと、気付かせてくれた。

「この歌のように解釈すれば、雨も嫌なものではないだろう?」

「は、……んっ!」

 返事をしようと口を開きかけたところで、身体を折った珀明に口付けられた。
 唇を啄むだけの、優しいキス。
 唇が離れると、珀明は優しい手付きで奏の頭を撫で、髪を一房持ち上げて愛しむように口付けを落とした。

「さて、そろそろ食堂に行かなければ葉月が煩い」

「はい」

 珀明は髪から手を離し、今度は奏の腰に腕を回した。
 されるまま、奏は珀明と共に一階の食堂へと歩き出した。

「織姫と彦星、今夜もきっと逢えてますよね?」

「あぁ、そうだな……」



 天の川 浮津の波音 騒くなり 我が待つ君し 舟出すらしも


 天の川に浮かんでいる船着き場の波音が騒がしくなっている。私が待っている貴方が舟を漕ぎ出しになったのでしょう。



*END*



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