「テスト前日」長堀 信
「まだ一週間か……」
職場のデスクに置かれた卓上カレンダーを眺め、信は小さく溜め息をついた。
信が惜しみない愛情を注ぐ年下の恋人は、現役の高校生だ。
しかも、彼女は自分の一人息子・千早と同い年。通っている学園も同じで、クラスこそ離れてはいるが、それでも教室は隣同士だ。
世間からすれば、蓮との関係は援助交際だと後ろ指をさされるかもしれないが、二人の間には金銭関係はない。
恋人らしく食事をご馳走したり、ちょっとしたサプライズにプレゼントを渡すくらいだ。
(私の方から、テストが終わるまでは連絡を取り合わないと言い出したんだが……)
来週から学園で中間テストが始まる。
その為、今週はテスト前週間で短縮授業だ。
学園側からすれば、いつもより早い放課の分、家で勉学に励めというところだろう。
信も一人の息子を持つ親だ。
勉強だけが全てではないと理解していても、テストでは少しでも良い成績をおさめて欲しいと思ってしまうのは仕方のないことではないだろうか。
そしてそれは恋人にも当て嵌まる。
信と二人で過ごす時間のせいで、蓮の成績に影響を及ぼすかもしれない。
そう思うと、“大人の役割”としてテスト前と期間中は週末の逢瀬は見送るべきだ。連絡を取ることすら信には躊躇われる。
一週間前、信はテストが終わるまでお互いに連絡を取り合わないことを決めた。
交わした約束は三つ。
千早からお互いのことを聞かない、会わない、電話をかけない。
蓮も信の“大人の役割”を渋々受け入れた。堪えるように唇を噛み、哀しそうに瞳を揺らして―――
(それがこんな有り様とは……、私もまだまだだね。会わないと言い出した本人が、恋人に会いたくて仕方ないなんて……)
「先生、法務局に書類提出して来ました。華月堂のシュークリーム買って来たんでお茶にしましょ。所長から最中のお裾分けもありますよ」
「あぁ……、ご苦労だったね。日夏君」
さっき出ていったと思っていた秘書の日夏が帰って来たことに信は内心驚きつつ、いつの間にか画面が黒くなっていたパソコンで時刻を確認する。
(日夏君が出ていってもう一時間半も経っていたのか……)
つまり自分は、一時間以上も卓上カレンダーを見つめていたことになる。
(仕事に身が入らなくなって来るとは……。蓮と居ると若い頃の気持ちが蘇ってくるようだね)
仕事に就いたばかりの若い頃は、亡き妻とお互いに忙しい合間をぬって逢瀬を重ねたものだ。
結局時間が作れず、直前に約束をキャンセルすることも珍しくなかった。
どんなに忙しくても、ふとした時には相手のことを考えてしまう。疲れている時には尚更会いたくなる。
会話がなくても、側に居てくれれば不思議と癒されたものだ。
何年も前に無くしてしまった気持ち。もう一生蘇ることはないと思っていた。
その気持ちが今、信の心に再びある……
「んん〜、華月堂のシュークリーム美味しいですね。たっぷり入った生クリームとカスタードの比率が絶妙で、それでいて甘過ぎないところが女性に優しいんですよ。昼過ぎには売り切れちゃうから今日はラッキーでした」
ニコニコと大きく口を開けてシュークリームを頬張る日夏は本当に幸せそうだ。
あっという間に食べ終わり、緑茶を啜って早くも二つ目に手を伸ばしている。
「日夏君はここのシュークリームが本当にお気に入りだね。帰って来た時同じ包みを二つ持っていたけれど、あれはご家族用かい?」
「えぇ。旦那や子どもたちも大好きなんですよ。去年までは仕事帰りに買いに行ってもまだ残ってたのに、今年に入ってグルメ雑誌に取り上げられたとかで昼には完売するようになって。なかなか買えなくて子どもたちもガッカリしているので、ここの買うついでに買っちゃいました。先生には冷蔵庫占領しちゃって申し訳ないんですけど……」
「構わないよ。君のところは相変わらず仲がいいね。喧嘩なんて殆んどしないんじゃないかい?」
日夏とは彼女が大学を卒業し、この事務所にパラリーガルとして就職して来てからの付き合いになる。
大学二回生の終わりに、当時交際していた四回生の男性と学生結婚し、入所して来た時には既にお腹が目立ち始めていた。
司法修習に入るとなかなか会えないことに焦った旦那さんが日夏の両親を味方につけ、半ば強引に結婚に持ち込んだのだと言う。
帰りに検察官をしている旦那さんが迎えに来て一緒に帰っていくことが何度となくあった。
今でも時々非番の日になると子どもたちと共に旦那さんが迎えに来ている。
おまけに三ヶ月に一度は子どもたちを実家に預け、二人きりでデートに出かけるというラブラブっぷりだ。
「そうですねぇ。子どもたちの教育に悪いのでお互いに些細なことは我慢して言いませんね。子どもは躾で叱りますけど喧嘩ってわけではないですし……。まぁ家庭円満ですね、今のところ」
「それはいいことだね」
様々な人間と接するこの仕事は、遣り甲斐も多い分ストレスも多い。恨みを買うことも珍しくない。
そんな時、自分を癒し支えてくれる人がいるというのはとても幸せなことだ。
「……そんなこと聞くなんて、先生もしかして息子さんと喧嘩なさったんですか? ここ数日様子が変だなとは思ってたんですけど。上の空の時とかありましたし。私でよければ話聞きますよ?」
ズイッと向かいのソファーから日夏が身を乗り出して来る。
心配そうに見つめてくる瞳に、信は困ったように笑った。
「クク……、そんなに私は態度に出していたかい?」
「いえ……、来客が途切れたちょっとした時などにボーっとしてらっしゃいましたので、何か悩み事があるのかと……」
「ふむ、そうか……」
仕事とプライベートはきっちりと分けていたつもりなのだが、そう思っていたのはどうやら自分だけだったようだ。
せめてもの救いは来客者の前ではいつも通りに出来ていたことだろうか。
(本当に、蓮と居ると私はどんどん幼くなって行くね……)
だがそれも、不思議と嫌ではない。
「そうだね……、来週から学園で中間試験が始まるみたいでね。勉強に専念したいからと、今週から部屋に入ることも携帯電話にかけることも禁止されているんだ。帰宅時間が違うから夕食も別々で、私が帰る頃には部屋で勉強しているから話も出来ない。朝もすれ違ってばかりで、顔も見ていなくてね。大丈夫だとは思っていても、声も聞けない、顔も見れない日々が続くと心配になって……」
実際は千早とは毎日朝夕と食事の席で顔を合わせ、きちんと会話をしている。
他の話でも日夏を誤魔化すことは出来たのだが、蓮のことを千早に置き換えることで日夏の意見を聞こうと思ったのだ。
話を聞き終わり、ペーパーでクリームで汚れた指を拭い、日夏はう〜むと軽く腕を組んで答える。
「そうですね。勉強も大事ですけど、家族との最低限のコミュニケーションは必要だと思いますよ。先生の方が朝早く家を出られるなら、“行って来ます”って書いた紙をテーブルの上に置いておくとか。……あっ! 電話が駄目ならメールすればいいんですよ! メールは駄目って言われてないんですよね? 勉強の邪魔にならないように一日一回だけメールするようにしたらどうですか?」
妙案だと言わんばかりに、日夏は両手を打った。
電話が駄目ならメールでと言う、日夏らしい発言に苦笑する。
信にとって携帯電話は文字通り“電話”がメインだ。
メール機能も利用するが、小さな液晶画面や親指だけで文字を打つことに馴染めず殆んど受信専門となっている。
仕事関係や友人たちも携帯にではなくパソコンの方に送られてくる為、携帯のメール機能を使いこなせていないことを不便に感じたことはない。
(そうか……、私は電話しか使わないから気付かなかったけれど、メールという手があったか。盲点だったね……)
「そうだね、一通だけメールを送ってみようか。日夏君に相談してよかったよ。有難う、日夏君」
「いえいえ。お力になれたなら嬉しいです。お礼は先生の分のシュークリーム一個でいいですよ」
「……日夏君、それだけ食べてまだ食べるのかい?」
「当然です。おやつは終業までの活力源ですから。勿論後で最中も頂きますよ」
ニコニコと三つ目を箱から取り出した日夏に、信は声を立てて笑った。
お茶の時間が終わり、信はパソコンで蓮宛のメールを作成した。
それを自分の携帯電話に送信し、受信したメールを蓮に転送する。
(今頃学校が終わったところかな。蓮は何と返信してくれるだろうか……)
愛しい恋人は自分のメールを喜んでくれるだろうか。それとも、拒絶するだろうか……
期待と不安を胸に、信は仕事を再開させた。
メールを送信してから三十分後、信の携帯電話に蓮から返信が届いた。
差出人:霜月 蓮
SB:信さんからの初めての長文メールにドキドキしちゃったよ。
本文:
信さん、メール有難う。
連絡は取り合わないって言ってたから、びっくりしちゃった。確かにメールは駄目って言ってなかったね。
正直ね、信さんは大人だから私と連絡取れなくても平気なんだって思ってたの。……ううん、本当は、私に大して関心がないんだろうって、思ってた。
ごめんね、信さん。信じてないわけじゃないの。本当よ? だけど不安になるの……、信さんのことが大好きだから不安になるんだと思う。
だからね、凄く嬉しいの。信さんも私と同じ気持ちだってわかって。
有難う、信さん。テスト頑張るね。お仕事も大切だけど、体調には気をつけてね。
P.S.デートも楽しみだけどイタリア料理も楽しみ!! 長堀君に負けないように励むね! 信さん大好き!
霜月 蓮
メールを読み終わり、信は「私も大好きだよ、蓮……」と心の中で囁き、携帯電話を閉じた。
微笑を浮かべて仕事をする信に、日夏は千早と上手くいったのだとホッと胸を撫で下ろしたのだった。
*END*
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