「清春と名刺」如月 清春


 午後四時。取引先から戻った清春は、デスクに荷物を置くなり上司である菖蒲に声をかけられた。

「おいポチ。ホチキス持ってないか? 前から調子が悪かったんだけど、とうとう壊れちまってよ」

 言いながら、菖蒲は親指と人差し指で摘まんだホチキスを振った。ホチキスの芯を入れる部分が壊れてしまったのか、真ん中の部分が無くなり上下の挟む部分しかない。

 毎回毎回、菖蒲は清春をポチと呼ぶ。初めの方は部署内ではちゃんと苗字で呼んでいたのに、今では業務中でもポチ呼びだ。菖蒲が同僚に「ポチは?」と聞けば、「あぁ、如月君ならさっき自販機コーナーに居ましたよ」と言う返事が返ってくるくらい、ポチ=清春と言う図式が部署内に浸透している。
 清春はそれが気に入らない。否、気に入る人の方が少ないだろう。菖蒲以外に自分をポチ呼ばわりしないのがせめてもの救いだ。

「だから菖蒲主任、俺の名前はポチじゃなくて清春っス! 如月清春。ね? 立派な名前でしょ。はいっ! んじゃ、主任もご一緒に! さん、はい。きーさーらーぎー――ぁいだっ!」

 今日も名前の訂正を求めれば、いつもと同じようにデコピンを食らった。

「やんねーっつの! 大声で馬鹿言ってねーで、さっさとホチキスを出せ。俺様の貴重な時間をお前ごときが潰すことは許さん」

 オラオラと急かされ、それが貸して貰う側の態度かと反論したくなったが、また痛い目に合うのが目に見えているのでグッと堪える。……が、結局堪え切れず、菖蒲には聞こえない程の小さな声で悪態を吐いた。

「……横暴」

「何か言ったか、ポチ」

 バッチリ聞こえてしまったらしい。
 清春はホチキスをデスクの引き出しから取り出すべく、慌てて引き出しに手をかけた。

「いえ何も。ホチキスっスね。ちょっと待ってて下さい……アレ?」

 ホチキスの入っている引き出しを引くが、奥に何か挟まっているのか引き出せない。

「お前、物入れ過ぎなんじゃねーの? 片付け苦手そうだもんな」

「……うっ! そんなことないっスよ。デスクの上は綺麗じゃないスか」

 そう。清春のデスクの上は整理整頓されている。何でもデスクの引き出しの中に入れてしまうからだ。よって、デスクの中は悲惨なことになっている。

「あぁ、勉強机の上が散らかってると母親や如月姉に叱られるから、何でも机の中に詰め込んできた結果って感じか。あのな、ポチ。何でもかんでも引き出しの中に詰め込むのを片付けとは言わねーんだぞ」

「うぐっ! どうしてそれを……」

 完全に読まれている。

「だから、お前の考えることなんかお見通しなんだよ。いい大人なんだから、片付けくらいちゃんとやれ」

「……はい。よいせっと……うわっ!」

 幼い子供に言い聞かせるように言われ、清春は何とも言えない気持ちになった。これではさっきのように怒鳴られた方がマシだ。
 気を取り直して力強く引き出しを引くと、奥に詰まっていた物が取れたのか勢いよく引き出しが開いた。その弾みで、ギュウギュウにしまわれていた中の物が飛び出した。
 大量の書類と名刺が花吹雪のように床に散らばっていく。

「あーあー、何やってんだよ。ったくよー。だから整理整頓しろって。おっ、ホチキス発見。……あ? 何だコレ」

 ヤレヤレと文句を言いながらも散らばった書類を拾い集めてくれる菖蒲は、仕事には厳しいが面倒見はとてもよかった。
 これも彼が部下から慕われる要因の一つだ。
 名刺を拾っていた菖蒲から上がった声に、デスクの中に拾い集めた物を片付けていた清春は手を止めた。

「何スか? 取引先の人の名刺がどうかしたんスか?」

「お前さ、貰った名刺にルビが振ってなかったら自分で振るのは良いんだけどよ。でもコレもコレも……、ルビ間違ってるぜ。飯山は“めしやま”じゃなくて“いいやま”だし、浪川は“ろうかわ”じゃなく“なみかわ”。つーか、お前まさかこの読みで相手を呼んでねーよな?」

 名刺には名前の部分にルビが振っている物と、振っていない物がある。振っていない物は、間違った読み方をしないように帰社してから自分でルビを振るようにしている。
 どうやら、帰社するまでの間に読みを間違えて覚えてしまっていたようだ。

「だ、大丈夫っスよ! 呼んでませんって……、多分。まだ注意もされてないっスから。それにほら、その名刺はたまたま間違えただけっス!」

「ほう……。お前のたまたまは四枚もあるのか。へぇー」

 そう。今回はたまたま間違えただけだと胸を張って言えば、菖蒲はとニヤリと笑った。

「そっ、そんな目で見ないで下さい! 俺、漢字には自信があるっス!」 

(これは絶対に良くないことを思いついた顔だ!)

「そうか。んじゃ、ちょっと待ってろよ」

 そう言って菖蒲はホチキスを持って一度自分のデスクに戻り、引き出しの中から名刺ケースを取り出して清春の元へ戻って来た。
 名刺ケースを開けて中から四枚の名刺を取り出すと、それを清春のデスクの上に並べていく。

「よし。そんなに自信があるなら、俺様が直々にお前の漢字読解能力の程を見てやるよ。この取引先の人の苗字の読み一つでも間違えたら、如月姉にチクってやるからな」

「のぞむところっスよ。ふふん。こう見えて俺、旧漢検準二級持ってんスよ」

「“準”がつくところがお前らしーわ。んじゃ、お手並み拝見。右から順に、1.斑鳩 2.小鳥遊 3.九十九 4.私部」

 並べられた名刺を右から順番に一番、二番、と読み方を読まずに指で指すことで答える順番を説明される。

(なんだ。主任のことだからもの凄く難しい漢字ばっかだと思ってたけど、これなら楽勝。全問正解っスね)

 どれも簡単な読み方だと、清春は自信満々に答えた。

「簡単っスよ。1.まだらはと 2.ことりゆう 3.きゅうじゅうきゅう 4.わたしべっスね!」

 「ふふん。どうっスか」と得意気に答えた瞬間、清春の頭に激痛が走った。

「ぜんっぜんちげーっつの! 1.いかるが 2.たかなし 3.つくも 4.きさべだ! 何が漢検準二級だ! このバカ犬め!」

「―――ィダッ! 頭叩かないで下さい! 痛っ…痛いっ、マジで痛いっス!」

 頭を鷲掴みされ、その状態で円を描くように動かされる。その間も頭に加えられる力は緩むことは無い。

「ケッ! 頭が痛いのは俺だ。さっさと業務に戻れ、この駄犬が! 俺様の貴重な時間を潰しやがって」

「だっ駄犬!? ヒドイっス! 冒涜っス! それに、時間を潰したのは主任自身じゃないスか!」

 ようやく解放され、清春は涙目で菖蒲を睨んだ。
 漢字読解力を見て欲しいなどと言った覚えは無い。

「酷いのはお前の頭だろ! ほら、早くしないと仕事終わらねーぞ! 残業には付き合わねーからな! オラよ、追加の書類だ」

「ギャッ! 何スかこの量! おっ鬼〜〜〜!」

 反論した罰だとでも言うようにデスクの上に書類の束が置かれ、清春は思わず悲鳴を上げた。
 定時まで後一時間半。清春のスピードでは、到底間に合いそうにもない。残業決定だ。
 その日清春が帰宅したのは、すっかり夜も更けた午後九時を過ぎてからのこと―――



おまけ


―――in 如月家


「ただいま〜」

「お帰りなさい、清君。ご苦労様。遅かったね。ご飯出来てるから、手を洗って着替えて来てね。今夜は清君の好きなお寿司だよ」

「ホント? しーちゃん。やった!」

「ふふ。良かったわね。じゃぁ、ご飯を食べながら一緒に漢字のお勉強しようね」

「―――えっ!?」

「菖蒲君から聞いたよ。清君漢字に弱いんだって? お姉ちゃん苗字の本持ってるから、それでお勉強しようね。問題一問正確する毎にお寿司を一貫だけ食べられるの」

「……もし、いっぱい間違えたら?」

「んー。お腹を空かせたまま寝ることになっちゃうね」

「そんなの嫌だ!」

「もうっ。嫌じゃないでしょ。早く来なさい清君」

「ちょっ…、しーちゃん! 腕引っ張らないでよ。イヤだぁぁぁ―――!!」



 この夜、彼は玉子を一貫だけ食べて眠ることになるのだった―――



*END*



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