『キドニーパイ』



それは、ディナー時の些細な出来事。


「珀明さん、キドニーパイお嫌いなんですか?」


 今夜のメニューは、ルッコラとスモークサーモンのサラダにキドニーパイ、ラム肉のシチュー。
 キドニーパイやラム肉のシチューはイギリスの郷土料理だ。
 前菜を食べ終わり、次に運ばれてきたキドニーパイを食べていると、奏は珀明がキドニーパイの乗った皿に殆ど手をつけていないことに気がついた。


「……いや、嫌いではない」


 珀明はそう言って、優雅にフォークとナイフを使いキドニーパイを口に運んだ。


「……………」

「あの、無理をなさらないで下さい」


 一口食べたきり無言でいる珀明に、奏は耐え兼ねたように言葉をかけた。


「……無理などしていない」


 そして、また一口。


「……………」


 再び無言。


 心なしか、いつもより眉間に皺が寄っている気がするのは気のせいだろうか。


(あれだけ眉間に皺を寄せて尚且つ無言なのだから、お好きなはずないですよね? もしかして……好き嫌いを知られたくないとか?)


「キドニーパイはクセがありますから、好みが分かれてしまいますね」


 キドニーパイは牛の肝臓や肉、マッシュルームなどをパイ生地で包んで焼いたもの。
 イギリスの庶民的な料理だが、内臓系が得意ではない人には苦手な料理かもしれない。


「……そうかもしれんな」


(……まだ認めたくないんですね)


「珀明さんは好き嫌いはありますか? 私は牡蠣が苦手なんです。噛んだ時の食感が好きになれなくて」

「そうか」

「…………」


(好き嫌いを私から言えば、珀明さんも打ち明けてくれると思ってたんですが……。上手く行かないものですね)


 珀明はメイドにキドニーパイを下げるよう指示し、奏がキドニーパイを食べ終わるまでクラッカーにディップを乗せたものを口に運んだ。


「お待たせ致しました。ラム肉のシチューでございます」


 そして、奏が食べ終わった頃を見計らって、メイドではなく葉月がシチューを運んで来る。


「葉月さん、有難うございます。わざわざ運んで頂いて」


(葉月さんが夕食に給仕をするなんて、今夜は人手が足りないのかしら……)


 執事である葉月は、お茶の時間以外は滅多に給仕をしない。


「いいえ。珀明様に用事がございましたので、私から代わって頂くよう頼んだのですよ」

「珀明さんに……?」

「私に用などない」


 珀明は、葉月の言葉に眉間の皺を深くした。


(葉月さんはまだ何も言っていないのに、どうして珀明さんはこんな態度を……)


「珀明さん! 葉月さんに失礼ですよ」

「お前には関係の無いことだ」

「―――っ!!」


 たまに珀明から発せられる言葉。
 そう言われれば、奏にはそれ以上追求はすることは出来ない。
 
 珀明は知らないだろう。
 その言葉一つで、どれだけ奏の胸が痛むのかを。


「残念です。珀明様。奏様にそのようなお言葉。仕方ありませんね。本当は、後で私の部屋に来るようにと一言申し上げたかったのですが……」

「葉月!」


 葉月の言葉に、珀明は声を荒げた。


「珀明様。キドニーパイに殆ど口をつけませんでしたね? いい大人なのですから、好き嫌いはなさらないように、と申しておりますのに。さっきも申しましたが、食事が済みましたら私の部屋までいらして下さい」


 そう言うと、葉月はにっこりと奏に笑い「お食事中に失礼致しました」と一礼して食堂から出て行った。


(いい大人だから好き嫌いをしないようにって……、やっぱりキドニーパイお嫌いなんですね。それにしても、後で葉月さんの部屋にって……、お説教?)


 葉月に怒られる珀明だなんて、全く想像がつかない。
 珀明は奏の前で好き嫌いを暴かれせいか、葉月の指示で新しく取り替えられたラム肉のシチューを見つめたまま微動だにしない。


「珀明さん。あの、余りお気になさらないで下さい。好き嫌いなんてすぐには直らないですよ」


(……葉月さん、お仕置きの効果絶大です)


「……いや。私も言い過ぎた。『関係ない』はお前の嫌いな言葉だったな」


 珀明は、たまにこうして謝ってくれる。
 思わず出てしまった。言葉以前の珀明さんなら、そのまま気にも留めなかっただろう。

 けれど今は、少しずつ変わってきている―――


(さっき胸が痛んだばかりだと言うのに、貴方の言葉に今度は癒される。……不思議ですね)


「気になってたんですが、後で葉月さんが部屋へ来るようにって仰ってましたが、何かあるんですか?」


 食事を再開し、奏はデザートのティラミスを食べながら珈琲を飲んでいる珀明に尋ねた。


「……漢方と小言だ」


 眉間に皺を刻みながら、珀明が答えた。


(漢方に小言?)


 小言はともかく葉月と漢方が結びつかず、奏は首を傾げた。
 珀明はその様子を見て、重い口を開いた。


「私は昔からキドニーパイなどの臓器系の料理を好まない。しかし、この所仕事が立て込んでいて、疲れからか貧血気味でな。隠していたんだが、気付いた葉月が鉄分の多い料理をシェフに作らせたんだろう」


 だから、今夜はキドニーパイ。
 自分は珀明が貧血気味だったなんて、気がつかなかったと言うのに……


「さっき漢方と言ったが、葉月は医師免許も持っているが、漢方医学にも精通している」


(葉月さんて、医師免許をお持ちだったんですね……)


「葉月さんは本当に、珀明さんを大切に想って下さっているんですね」


 人を信じない珀明さんも葉月さんとレイヴンだけは信頼してる。


(いつかその中に私も入れて下さいますか?)


「では、しっかり葉月さんに叱られてこないといけませんね」


 “心配かけた分、体調を治して安心させてあげて下さい。”

 そう想いを乗せて、珀明に告げる。
 そう言えば、珀明は分かっていると言いたげに、席を立った。


「分かっている」


 珀明の居なくなった食堂の窓から、奏は夜空を見上げた。
 冬が訪れた空は澄んでいて、普段見えない星が綺麗に見える。


 珀明と結婚して、もうすぐ半年―――


 夏と秋が過ぎ冬を迎えた今、日々新たに知る貴方の一面に、私は喜びを感じている。



 ―――もうすぐ春。木々が芽吹く頃、私はまた貴方の新たな優しさを知るのでしょう。



*『キドニーパイ』END*
優奈様に捧げます。
キリリク有難うございました。




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