『慈雨』
「先生って、白衣が似合うよね」
実験が終わり、いつものようにビーカーで沸かしたお湯で紅茶を飲んでいた優実は、隣に座るファントムを見上げた。
「それは……有難うございます?」
唐突な言葉に、ファントムは苦笑しながら疑問形で返した。その顔にはトレードマークの仮面は無く、代わりにあるのは人を惹き付ける整った素顔。
優実の願いでファントムは二人きりの時は仮面を取る様になっていた。その代わり化学室の扉には使用中の札を提げ、鍵をかけた。勿論窓にも鍵をし、カーテンも引いている。
密室に教師と生徒が二人きり。これは他の教師や生徒から見れば別の意味で十分問題なのだが……
優実はファントムの白衣の裾を指で摘まみ、何か思い出したように柔らかく笑った。
「私、先生の白衣好き。一度だけあったよね? 先生が寝てる私に白衣かけてくれたこと」
「あぁ、私が職員会議で遅くなった時ですね」
あれは確か、二年生の梅雨。まだ優実とファントムが結ばれる前――
***
「先生まだかな〜。職員会議って何時頃終わるんだろ……」
優実は化学室の実験机に腕を置き、その上に頭部を乗せて窓の外を眺めた。
梅雨入りした午後の空は厚い雲に覆われ、窓ガラスに雨が無数の線を走らせる。
「雨かぁ……、傘持って来てないのに……。帰りまでに止んでくれるといいけど」
(今日は午前も午後も降水確率は三十パーセントって朝言ってたのにな……。なにも傘の無い日に三十パーセントの方にいかなくてもいいじゃない)
雨もじめじめしとした梅雨も嫌いだ。
「ふぁ……。はぁ……」
広い化学室に一人きり。静かな雨音は、優実を眠りの世界に誘う。
「静かで眠くなっちゃった……」
(先生が来るまで……、少しだけ。少し、だけ……)
そう自分に言い聞かせ、雨音を子守唄に優実は瞳を閉じた。
――
―――
「んぅ……?」
(あれ? 私……。あぁ、そうか。先生を待ってて寝ちゃったんだ……)
「って、今何時!?」
伏せていた上半身を起こし、黒板の上の時計を見ようとすると、後ろでパサリと何かが落ちる音がした。
(……パサリ?)
足元に視線を落とすと、そこには見慣れた白衣が落ちていた。
「これ……、先生の」
白衣を拾い上げ、埃を払う。白衣には所々に薬品が飛び散った跡があり、小さな染みを作っている。
「おはようございます。優実さん」
耳に心地の良い、少しこもった大好きな人の声。優実は声のした方へと顔を向けた。
声の主は教師用の実験机にプリントを広げ、採点でもしている途中だったのか、手には赤いペンが握られている。
「起こしてくれたら良いのに……」
ファントムの座る場所からは、優実の寝顔がはっきりと見えた筈だ。
(好きな人に寝顔を見られるなんて……)
「すみません。よく眠ってらしたので。でも、もう八時半ですよ。今日はもう終わりましょうか」
「えっ……、八時?」
八時という言葉に、慌てて腕時計を確認する。時刻は八時半を少し過ぎたところだった。
「もう遅いですから、ご自宅までお送りしますよ」
ファントムはファイルにプリントを綴じ、化学室の鍵を持って立ち上がった。
「え、いいよ。一人で帰れる」
学園から自宅までは電車で三十分の距離だ。幼稚舎時代から一人で通学しているので通い慣れている。よって、わざわざ送ってもらう必要が無いのだ。
けろっとした顔でそう告げれば、ファントムは「駄目です」と首を横に振った。
「電車通学でも、夜道は危ないですから」
「も〜、子どもじゃないんだから大丈夫よ。夜道だからって転けたりしないって」
ファントムは優実の言葉に頭を抱えそうになった。
(……鈍いだけなのか天然なのか。優実さんは大物になりますね)
「そうではなく、大人だから心配なんです。物騒な時代ですから、不審者や女性を狙った事件に巻き込まれないとも限らないでしょう?」
(不審者って……。仮面着けてる先生が言うんだ?)
「なら心配なのは先生の方よ。日常的に仮面着けてるんだから、夜に不審者に間違われないように気をつけてね? ニュースで先生の名前が出ないか心配しちゃうから」
ニュースで報道される場合は実名報道になり、芋づる式に会社名もバレるだろう。
そうなれば優実は別の意味で驚くことになるのだが……
そもそもファントムが仮面を着脱するのは、学園へ入る直前と学園を出て少ししてからだ。よって、優実の心配は杞憂。
「私は大丈夫です。それよりも、ここで相楽さんを一人で帰らせて何かあれば、私が悔やみきれませんから。だから私の為に送られて下さい」
「……うん」
優実に何かあれば、ファントムが自分を責めると言う。その言葉が嬉しくて、優実は送られることを承諾した。
***
「あの時はビックリしたよ。先生の車ジャガーだもん」
ジャガーといえば高級車だ。仮面を着けたファントムとジャガーという組み合わせに優実は度肝を抜かれた。
(今思えば、帳さんにはハマりだったよね……。帳さんはいつも運転手付きのメルセデスだったし)
「優実さんが望むなら買い換えてもいいですよ。BMWでは如何ですか?」
「いいよわざわざそんな。ね、それよりもまた先生の白衣着てみたい」
話を変えるように白衣の裾を引っ張ると、ファントムは苦笑しながら「いいですよ」と白衣を脱いで優実の肩にかけた。肩にかけられた白衣から先生の温もりが伝わり、香水の残り香と薬品の匂いがふわりと漂う。
優実が白衣を羽織れば、丈は足首程まであった。 袖も長く、指先から先が余りダラリと下がってしまう。白衣を着て立つその姿は、まるで“白衣に着せられている”よう。本人が楽しそうなので、ファントムは黙って見ていた。
腕を動かして袖をパタパタさせたり、薬品の飛び散った跡を指でなぞったりと、一通り遊んで満足した様子の優実は白衣を脱ぐことなく言った。
「先生。これ、頂戴?」
「それなら生徒用の新しいのを差し上げますよ」
準備室には化学部員用の白衣が入った段ボールがある。優実が入部時に必要無いと言っていた為、未だ段ボールは未開封のままだ。
優実は首を横に振り、白衣の裾をギュッと握り締めた。 その頬は少し赤い。
「ううん。先生のが良いの」
「汚れてますよ?」
「良いの。だって、先生が近くに居る気がするから……」
白衣から香るのは、帳の時とは違う柑橘系の爽やかな香り。 その香りと薬品の匂いとが混じった、ファントムだけの香り。
恥ずかしそうに垂れた袖で顔を隠す優実の姿に、ファントムは耐えきれずその身体を抱き締めた。
「せ、せんせっ!?」
「お願いですから、あまり可愛いらしいことを言わないで下さい」
(可愛いらしいことって……?)
「先生?」
意味が掴めず、優実はファントムの背中に両腕を回した。
互いに抱き合う形になると、ファントムはより強く回した腕に力を入めた。
「寂しいのなら、部活動のある日はこうやって抱き締めて差し上げますし、会えない日も電話やメールをします」
「だから、白衣なんかで寂しさを紛らわさないで下さい」と、耳元で囁くように告げられる言葉。
「……私、贅沢になっちゃったね。今までは先生を好きになっても無駄だって分かってたから、会えない日は耐えられたの。会社のお仕事が忙しいって分かっているのに……、ごめんなさい」
叶わないと思っていた想いが通じれば、欲は増していく一方だった。
“帳”の時は興味さえ持たなかったのに、大好きな化学教師の“ファントム”と同一人物だと分かれば、今までの反応が嘘のように“帳”と会うのを楽しみにしているのだ。
それは、何も知らない優実の両親も驚く程。
「我儘で構いません。優実さんがもし、教師としての私に好意を抱いてくれなければ、優実さんの心が傾くことはなかったでしょうから」
どんなに相手が嫌な相手だろうと、結婚という現実から逃れられない優実は知ることを辞めた。
それは優実にとって無駄なことであり、これ以上相手を知って幻滅しない為。 しかしどんな形であれ、優実が心を開いてくれたことが帳には嬉しかった。
優実が化学部に入部したことも、ファントムに恋をしたことも偶然。優実とを繋ぐ教師という職業に、これ程感謝したことはない。
「忙しくても、こうして優実さんに学園で会えるから私は頑張れるんです。優実さんと同じで私も会えない時は寂しいんですよ。……忘れないで下さい」
「……はい」
優実は込み上げてくる気持ちと涙を抑え、ファントムのシャツを強く握り締め頷いた。
飾ることのないファントムの言葉は、慈雨のように優しく優実の心を潤していく……
どうか―――
私が貴方で癒されるように、私が貴方の心を癒すことが出来ますように――
*END*
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